2009年11月07日

「日本の伝統」その3

やっと来ました、最終回。この「中世の庭」の章でこの本の半分を使っているのですから、太郎さんの力のいれようが伺えます。こころなしか、視点が近眼になっている気がしないでもないですが…。さて、太郎さんはなぜここで庭を取り上げているかというと、庭が日本的伝統のサンプルとして相応しいものであると考えられているからのようです。しかし誰の目にもいわゆる典型的日本庭園からは程遠く、異種異様に感じられる銀閣寺の銀沙灘という白砂の山のことをかなり書かれています。ということは、「庭の典型」が「日本的伝統のサンプルの典型」、ということではないようです。
「銀沙灘」について、太郎さんはその異様さを認めてはいますが、それをひとつの大きな彫刻ととらえたときに、周囲の自然環境との立体的な融和に注目しています。これは竜安寺の石庭など、典型的日本庭園が平面的で1方向的な配置であることと相反して優れていると評価しています。また自然は遠方の木々等ですから、自分が移動したときの目前の銀沙灘の刻々と変化して行くフォルムのダイナミズムと遠方でゆっくりと流れて行く木々の平面的なゆったりとした変位とのコントラストを楽しむための装置としての評価のような部分もあります。まさにこれはインスタレーション。視点を変えるための装置。太郎さんの評価は明らかに現代美術的評価といえます。また、庭を囲む塀についても、その向こうの借景の自然と手前の人工的な庭との境界を切るための要素として、非常に重用視しています。

以下引用
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もし素朴に自然を観賞するなら、こういう区切りはつけないはずです。たとい塀が必要であっても、造庭の工夫によってたやすくそれを隠すこともできるし…(中略)。だが、そうしたら、まえにもお話したように、人工と自然がひらたくつながってしまって、芸術的な、そして空間的な魅力はうしなってしまいます。
一線に区切ったーーとたんに自然は自然として、人工は人工として、実は実として、虚は虚として、二つの対立極は相互に高度な緊張をおびてはたらきかけ、そのあいだに火花をちらすのです。
これは今日の芸術のもっとも新しい課題にそのまま通じる、おどろくべき弁証法的技術であると言わなければなりません。
ーーーー
引用終わり

この後、鎖国という物理的閉鎖も含め、物理的にも概念的にも狭い日本の重箱文化を指摘し、これらダイナミックな庭とは違って箱庭的、予定調和的波風をたてないようなあまたある他の「庭」について批判するとともに、概念的な「禅」についてもこの時代の社会には本質的に根付くことが(あるいはもっとしぶとく追求することが)できていないと批判しています。

以下引用
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本質的な対決のない不毛な世界のなかで、消極的に身をまもる順応性が、日本文化の一つ性格になっているのは、けっして嬉しいことではありません。
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引用終わり

ようするになんとなくうまくとりまとめ、反自然なのかなんなのか、態度がはっきりしていないことにいらだっているようです。まあ、そういうものは「表現」とは言いがたいでしょう。太郎さんは強い激しさに惹かれ、また自分も強く激しくあろうとする。それは悪くはないけれど、仮に縄文の血をひいた「日本人」であろうとも、さまざまな状況のなかでは優柔不断になってしまうこともあるかもしれない。まあしかしそれは「芸術表現」として評価に値しない、というだけのことかもしれない。「調和」というものは安易な自己犠牲の上に生まれるものでなく、お互いがせめぎあうそのぎりぎりの攻防のなかにしか、生まれ得ないものだ、ということなのでしょうか。だとしたら、やっぱ大変だなー、生きてくのって…。
posted by tamaph at 22:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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