日本の伝統、書き終えていませんが、わりこみでメモを記します。
創造行為とは、好きなことを好きなようにやること、ではない。
それも含むけど、それでは充分ではないのだ。子どものように何かに遠慮したり気を取られたりすることなく泣き叫んだりすることは、本物の魂の叫びには違いないが、私たちが扱う表現活動や創造行為、というものとはまた違ったものだ。そういう要素は必要条件のひとつかも知れないけど、十分条件ではない。
だから子どもの絵や、アウトサイダーアートは良い絵もあるかもしれないけど、あまり興味が無い。
創造性を促す、とはどういったことだろうか?
それには段階があるだろう。
1。現代の社会につかりすぎて凝り固まってしまった思考回路に創造の喜びを回帰させること。
2。創造の源があるという前提で、ではそれをどう実社会の中でリアライズしていくか、という方法論的な補完。(精神的な事、あるいは金銭的な事や他人との関係等物理的な事など、様々なハードルがある)
3。自己表現以外の「表現」に、固有の創造力を発揮してくための、技術の習得とそのマッチング。
創造都市の最終的到達点は、究極的には3番ですが、それを育てるには1も2もやらなくてはいけない。でも、1と2をやるのは何のためかというと、最終的には3にいく、という前提でのことでしょう。
しかし、表現と通常のお勉強の違うところは、1ができたら2、2ができたら3というアプリオリなものではないということです。
正当なアーティストというのは、2をきわめている人であって、3でなくてはいけない、という訳ではない。つまりアーティスト全員=3になる、というのとも違う。
だからといって、3が正当なアーティストではない、というわけではない。
アーティスト、という職業はかなり近現代的職業であり、そのあり方のひな形というのもないわけで…。しかも他力本願と自力本願の度合いがどうとかいうのは、アーティストごとに考え方も違うし。(クリストとかは極端に自力本願だけど、やっぱりドローイングとか作品の端きれとかを売って他人のお金を獲得しているわけで、その行為は自力なのか他力なのか??)
実際、私自身が創造行為と言うときには何を指しているのかというと、2のときと3のときとの使い分けがあると思うんだけど。
経済の話はこのことにどう関係するのか?
また、多様性の優位性はこのことにどう関係するのか?
また、人間そのものにおける創造性の根源、アフォーダンスはどう関係してくるのか?
あるいは、伝統・型・ある特異な技術の習得と、表現の中でそれを方法論の一部として発揮することの関係はどうだろう? ただ単にArmとTechの切磋琢磨の一過程にすぎないのか?ただしそのことで比喩としての意味を込めることもできるだろう。あるいは無に帰することもできるかもしれない。「個」ではなくシンプルな「人間」としての様相を際立たせる、あるいはその逆か?
認識論?意識と無意識?
自分の中で問題は、大学頃からあまり変わっていないようだ。
2009年10月17日
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