読んでから随分たってます。読んだのは8月末。この忙しい時期に本が読めたのは、熱が出て丸2日寝込んでいたから。ただし珍しく熱が37度代でおさまってくれていたので、熱くてだるいけど読書くらいできそうだ、と。以前に一度読んだ事があったけど、文庫が出ていたのを購入してずっと放置だったので、このチャンスに再読してみた。
「伝統」を過去のもの、とするのはその価値を殺してしまうようなもの。現代の視線で伝統をとらえなおしたときに、「伝統」の意義が生まれ、今日を照射するそんざいとなりえる。と。
そのような思想を追体験することが、この間、自分の実生活やいくつか見た表現の中にあったのは偶然ではなかろう。(ほんと、今流行ってんのかな、と思うくらい…。)
この本は「伝統とは創造である」という太郎の伝統論の大枠、「縄文土器」「光琳」「中世の庭」という3つの各論を通した理論の裏付け、そしてこの文庫版に新しくおさめられた「伝統論の新しい展開」というモノローグからなる。
「縄文土器」は、岡本太郎がメディアで「藝術は爆発だ!」と目を丸くしてパフォーマンスし変人ぶりをアピールする一方で、日本における社会学上、重要な偉業を残した論文だ。すなわち、日本の歴史に「縄文時代」を定着させたのだ。実際私よりひとまわり上の世代の人たちの歴史の教科書に「縄文時代」はなくて、「弥生時代」から始まっているというから、びっくり。
まず、帯のことばがすごい。
「『自分が法隆寺になればよい』 TARO 」
って…あなたはなれるかもしれんけど、ふつーのひとはなかなかなれまへんがな。
さて、気を取り直し「縄文土器」の最後の方。以下引用。
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今日、こののっぴきならない現実のなかで、芸術家意識にこだわるために、ほとんどすべての芸術家たちが、どんなにとまどい、それをひたかくし、みずからの非力をごまかしてうろうろしていることでしょうか。みにくい姿です。
この不可視であり、だがなまなましい現実的な事実に正面からぶつかり、その意味をみきわめ、おのれじしんを引きさかないかぎり、現実にたいして、また芸術にも決定的に無力です。
だが、この交渉をまた逆に神秘化したり観念化してはなりません。それこそ形式論に堕落することであり、頽廃です。
(中略)
…土器をみればわかるでしょう。はげしくても無理が無い。あのような美しさに、見るものを意識した卑俗さがみじんもない。つまりわれわれ現代人の考えているような目的だとか意味なんて、まったく汲み取れないほどたくましく、平気でやってのけているのです。いわば無意味の意味といえるでしょう。
このように平気で、明朗で、くったくのないありかたを、われわれは生きる方法、そして芸術の内容としてつかみとるべきです。
ーーー
引用終わり。
芸術の日常性と、アーティストの自律性、創造の喜びに対する羨望と憧憬。その視線は芸術家そのものの視線だが、同時に鬱屈した社会を打開していく方法としての縄文的朗らかさを推奨する視線は、社会に挑む一生活者としての真の叫びともいえる。
ブルーノ・タウトら西洋人によって定義づけられた「日本」の静的イメージは、神秘化された、つくられたものであり、本当の「日本」あるいは「日本人像」は、「伝統」を自分たち自身で読み解くことで、むしろ縄文という真実を太郎自身が「生み出した」。かなり「日本の伝統」論を実践している、太郎はやっぱすごい、と思う。
しかし、芸術を神秘化すべきではない、という発言はこの時代にしては、さすがインテリ、冷静な意見。もしかして、あのパフォーマンスは、逆に神秘化「されない」ための、大衆メディア向けパフォーマンスだったのか??
でも以前に、それまで鋭気なくふつーに歩いてた太郎さんが、カメラが向いた瞬間に「爆発だ!」のときのように目をひんむいて、カメラにガン飛ばしてたのを見た、とあるお方に聞いた事がある。それって、やってること、むじゅんしてんじゃん、たろさん!!
長くなりそうなので、その2に続く。
「日本の伝統」岡本太郎
光文社 知恵の森文庫 660円
2009年10月12日
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