2009年08月15日

合意形成

この数年間考えて来たのは、『合意形成』のあるべきプロセスについて、だった気がする。

だが、意識的な合意形成というプロセスは本当に必要なのか?
それはライアル・ワトソンの「生命潮流」の101匹目のサルよろしく、無意識的に取捨選択され、デジタル変化していくならば、それにこしたことはない。それは合意形成というよりも、自然な進化のプロセスだ。

つまり、「合意形成」しようだなんて、体のいい思いあがりなのではないかという気がしてきた。

すばらしいプロジェクトや仕事、まさに進化のきざしとよべるような出来事は、充分な合意形成の上に成されているかというと、必ずしも、というかほとんどそうではない。作家の仕事もしかり、だ。
ただし、他人の土地やお金を使ったパブリックアートやプロジェクトは、ある程度の合意形成が無ければ、事を起こすことすらできない。だがその説明責任は最低限ラインのことで、たとえば安全性やコストなどの対策でしかなく、できあがったものの説得力を代弁するようなものではない。
人が本当に納得し、合意が形成されるのは、具体的になされた「もの」や「こと」からでしかない。もちろん、具体的に成されれば何でも合意されるかといえばそうでなく、猛烈な反感を買う場合もあるが、既成事実という言葉通り、なされたものがいつのまにか既存となって基礎となってしまう方が多い。

合意なんてしようとするから、よけいな心配や思いが浮上して、逆に動けなくなる。筆はとまり、思考もとまる。けど、ある意味でそれが自分の仕事だと思わざるを得ない部分もある。組織を持続しなくてはいけないからだ。要するに最低限の説明責任を誰かが果たさなくてはならない。あたしは人柱かいな…。
突っ走るタイプにしか物事を牽引していけないけど、それは常にそれを制御するものとセットだ、というのだ。
私はその鬱屈の中にずっといる気がする。走り出したいのに走り出してはいけない。けれど他人が走り出すためにかまをかけ、走り出す手助けをし続ける。だがいざ、自分が走り出そうというときに、やはり走り出せない自分…。

いや、論理的には既にそんなことはわかっていた。そんなことがわかっていたからこんなことになっているのかもしれない。つまり、バランスをとるための捨て石のような立場をとらざらんとする自分。
そんな風に言ってしまうと、これまで一緒に仕事をしてきた人たちからは、私は信用できない存在として映るだろう。






posted by tamaph at 01:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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