いま、すごく革新的なことを2つも思いついたのに、Macがサイトアップデートしてて、思考が定着できないうちに消えた…。
うー、くやしいな。なんとか思い出してみよう…。
それがこのBlogの本来の役割だった。
ひとつは、ディレクションする立場と、される立場について。
もうひとつは…、うー、わからなくなったー!!くやしー。
とりあえずひとつめからひもといてみよう。
ディレクションする立場とは、ディレクター。される立場とは、作家なりアーティストだわな。で、本質的に、というか日常生活においてはその立場って逆転してると思う訳。
というのは、ディレクションされる立場である作家は、日常的に自己あるいは自己の行為を規定して成立している立場だと思う訳。「表現」って、そういう締念をともなうものだとおもうの。で、ディレクションする側は、常に自己の思考における規定だけで答えは出せなくて、いろいろなバランスをふまえて答えをださなくては「いけない立場」だと思うの。もちろんその結果、自己規定を押し通すというのもありうるけど、とにかくそうするとしても、ひととおり、まわりをながめて、まわりの状況を咀嚼しつつ、でも現状でなにがベストかの答えを、勇気を持って出さなくてはいけん。それが仕事。もちろん作家だってそうだけどさ、それが一見アンバランスだとしても作家なら許されるわけ。だって最初から記名は「個人」だから。背負わなくていいわけ、よけいなものを。でもグループみたいにアノニマスな作家っていうのもいて、これ、実はくさいね…。(すんません…私らのこと?)というか、やっぱ、誰の金で動いてるかってことなのかな??
んんーー。
今思ったのは思考の先の定点をどこに置くかということが、両者に共通する重要性だと思うけど、作家はそれは結果的によきところにおちれば良いのであって第一義的にそうでなくてはいけないということではない。(ほんと?) けど、ディレクションする人はそこに対する最低限のアベレージは確保しないといけないんだと思うんだ。ある意味、保証しますよ、という保険屋さんみたいなもんだからね。でも、やおやだって全ての八百屋が野菜のことを知り尽くしているわけでなく、いい八百屋も悪い八百屋もある。それを見抜くのは消費者次第なのね。ということはさ、美術とか芸術を、信じるに値するものだと、手放しには言えなくなる…。
ちがう、やっぱ、視点の先の問題だ。それがどこに向いてるか? それって、実は同じと思っている人も、違ったりするんだろうな。知ることが怖い。あー、でも多様性の尊厳の立場からは、それでいいはずだし…。うおー、自分がなんなのか、わからなくなる!!
ひとつめの思考も有らぬ展開をし、ふたつめの思考に至ってはとうとう思い出せなかった…。
いつかまた、出会えるかな??
というかあたしは寝れるのか、このもんもんとした思考の状況の下で!!
2009年08月02日
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