「作家として生きる」あるいは「作家的に生きる」ということは、予定調和的世界からの決別である。私は予定調和が概念的には好きではないし正しいと思っていない。だが既にこの環境の中で生きてきた私の「脳」は確実に「予定調和」というものに唯一安心できる「薬」を見いだしはじめている。それはいつからだろうか?
「作家」という不確かな生き物は、不確かな自分自身を抱え、不確かさの中に足を踏み入れていくようなものだ。まるでマイナス×マイナス×マイナスは、もっとマイナスみたいな…。小心者の私は何時でも入口で尻込みをしてしまう。あるいは石橋を叩いてたたき壊してしまうタイプだ。そんな自分はいやだし、向こう側へ渡りたいという願望は誰よりも強いはずだ。だのになぜ、橋のたもとで、とまどってしまうのか?
今は、作家として生きているわけではない。実はどうにか、マイナス(自分)×マイナス(社会)×プラス(予定調和的仕事)で、成立させているような気がしてきた。では、予定調和と決別するためには、どうすべきかというと、「自分」あるいは「社会」を「プラス」にするしかない。「社会」は自分では変えられない。変えられるとしたら、それは「自分」が変わることでしか、変えられない。結局消去法的にも「自分」が変われと言うことだ。しかしこれもまた「概念」の話で、ではどうやって、変わるのか…?
別のケースを客観的に見て、「その時には、いくらどうやったって越えられない現実、というものもある」ということはわかっている。けどやはりこれも概念で、現実の状況に落とし込んでみたときに、ではそういう状況をどう流していくかという具体的なスキルは持ち合わせていない。
名前は忘れてしまったが、先輩の作品で、とても好きな作品があった。自転する長いブランコに座って本を読んでいる人がいる。その本には「経験とは、経験すること」と書いてある。その子はそこにひたすら眼を落として、同じ所をぐるぐるまわっている。という作品。
一体、経験とはどうすれば経験できるのか? 一度に世界中を知ることはできないように、物理的に越えられない壁というものは確かにあるよ。そのことを限界というのか? あるいは物理的に越えられない壁があるという事実を自分がうまく越えられないでいることを限界というのか?
地に足をつけて、考えるべきだとおもう。でもこれもまた概念。
今日も昨日と変わらない。堂々巡り。だけど、そんな日があったことが、いつか無駄じゃなかったと思える日がきたらいいなあ。
と、最後はささやかな抵抗とささやかな自己肯定でした。
2009年02月27日
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