この本の初版発行は2011.5.30ですから、3.11からたった2ヶ月半後、という緊急発刊。それも平川氏が主催する「ラジオデイズ」でUst放送した鼎談を書籍化したもので、その鼎談は3.11から3週間後の4.5におこなわれたものなのだそうです。
平川氏は主に聞き役で、もちろん意見もされますが、内田、中沢の発言が多いです。3人とも1950年生まれ、というのは、今回の出来事を語る論客として、私としては興味深いところがあります。
今、平行して、別の3.11関連の書籍を読んでいるのですが、この本は話し言葉なのでさっさと読めちゃう。時間がちょっと空いちゃったわって人にはお勧めかも。非常にコンパクトな本なんで、あんまり書いちゃうとネタばれちゃうから、直接の引用は避けて私の感想を述べようかと。。
今、3.11から8ヶ月経ったけど、余震も減ったし、電気も結構普通に使ってるし、ものが不足している気配もあまりないし、放射性物質については相変わらず話題になるけど、生活としては普通になりつつある。時間が経つにつれて、少しずつ忘れていった方がいいっていう人もいるようだけど、それはもちろん最愛の肉親や友人・知人をなくしてしまった人や、家や財産を失ってしまった人の感情に対しては、そうかもしれない。だけど、地震や津波に対しては、私たちは被害者だったかもしれないけど、世界的に見たら原発については加害者でもある。自分がそういう立場(つまりは結果として原発を容認してきた立場)なんだってことを引き受けて、この問題の根本を考え直さなきゃって人、実は若い人には少ない気がする。著者3人が1950年生まれだっていうことに興味を抱くって言ったのはこの部分で、そういうことをきちんと背負おうという最後の世代と言うか、その境目がどこなのかってきちんとはわからないけど。若い人は、ボランティアとか、東北支援のためのプロジェクトとか、今「行動」をする人は少なくはないと思うけど、今きちんとした主体的「思考」をしている人が、どれだけいるのだろうか? 実はたくさんいました、ということを願うばかりです。。(あ、でも佐々木中は信用しています。)
というのは、最近の若い人の仕事ぶりをみて思う危機感と、同じような感覚があるからなんです。これがダメになったときにどうなるかっていう危機管理というか、メタレベルの思考がない。だから、簡単に負ける。愚痴になりそうなので、この話題はここまで。もちろんちゃんとやる人もいます。。
この先は、自分メモ。文章のタイトルのみ、引用で。。。
成長神話と「エコ幻想」の終焉
この鼎談がおこなわれて以降、世界的にも様々な天変地異があったりして、世界がいろいろ動いている。そういうなかで、日本の中でも3.11がかすんでいっている気がする。特にまだどっちに転ぶかもよくわからない放射性物質の影響について。ここんところは、もう少し慎重に対峙していいと思うんだけど。。なんだかもっと根本的な部分で思想の組み替えが起こればいいと思ってはいたけど、現時点では、もとの基本理念に戻っていきそうな、不安を感じるのも、事実。本当に終焉してくれるんだろか。。
経営効率と排除される科学者の提言
組織っていうのは、むずかしい。これは今まで何度だって問題になってきたことだけど、時間が経つにつれてまた元に戻ってしまう。今回こそは、そんなことはないだろうと思っていたけど、なんかやっぱり都合良く、One of themに片付けてしまわれそうで、ちょっと不安なんです。
原子力エネルギーは生態圏の外にある
これは、もっともっとみんなが自覚するべき事だと思う。選ぶにしろ、捨てるにしろ、そのどちらかを考えるにしても、そのことは、もっと前提として、自覚するべきなんじゃなかろうか。既に手に負えない領域に手を出しているんだ、という覚悟。
「聖域」の扱い方
ソフトな見た目の日本の原発。デザインはそういう為にあるんじゃないという悪い例。見た目で平気を装うわけ。なんかこういう子供だましって腹立ってくるわ。ほかの事ならいざ知らず、命かかってるんだからさあ。誰の陰謀なんだろ?すべてのデザインはWYSIWYGにしようよ。。
すべての組織の「ないないない!」
もしも、を考えて対策を考えておくのが危機管理で、そんなことはありえないと公言している手前、もしもを考える事は「負け」だから考えないというのは、傲慢の怠慢でしかない。これが「経営効率と排除される科学者の提言」のところのこととも、結びついている。悪いスパイラル。
内田からもひとこと
これ、あとがきのあとがきなんだけど。「アラームの劣化」と内田さんが言っていること、これは動物としてのカンというか、そういうものを無視することで、社会が成立してきた事への警鐘だと思うんですね。とはいえ自分自身も、この社会のスピードについていくために、どうしようもなくわき起こる感情をどう処理するかってことに20年以上も戦ってきた。それでもどうしても残るものはあるって信じてるけど。だけどもっとのっぺらぼうになってしまうことだって、もちろんないとは言い切れない。
ごまかすことでどうにか成立できる部分があるのも真で、ごまかして通ってはいけないことがあるってことも真で。なら、何はごまかしてもいいけど、何はだめなのか?っていうことを自分自身で判断して取捨選択できないといけない。そこを通り一遍にしてしまう人が多い。他人に何かを強要することは好きではないけど、それがもし自分の身にもふりかかってくるとしたら、だまって見過ごす訳にはいかない。どうやって伝えれば、本質が伝わるのか?わたしのつたない能力ではまだまだです。日々精進。。って言ってるうちに時間が経ってしまわないように。。。という自戒。
「大津波と原発」内田樹×中沢新一×平川克美
朝日新聞出版 777円
ちょっと前に買ってあったのですが、やっと読むスキができた。。
2011年11月13日
2011年10月07日
拝啓 スティーブ・ジョブズさま
あなたは教えてくださいました。
いいものはいいと言い続けていて良い、ということを。
それは机上の論理や、ただちゃらちゃらいいよねー、とか言いあうとかいうことでなくて、その、いいと信じたものを現実社会でリアライズさせていくということです。それには、その当人にものすごい負荷がかかることでしょう。もちろん当のあなたも、悔しい思いや、悲しい思いを、いくつも重ねてきたのではないでしょうか?
それでもその信念を貫き通す強さは、ガリレオガリレイの「それでも地球はまわっている」的な、貴方流の「完全なる美学」であると私には思えるのです。あなたはその、美学を貫くことの大切さを、教えてくれました。それは何にもまして、人が生きていく上での、かけがえのない糧となるものなのです。
もちろん、何でも貫けばいいということではありません。しかし、これ、というものに対しては、貫くことでしか、その正しさを確立できないものであると、今は思えます。
おもえばMacには、いろんな無理なことを実現しているが故のことと思いますが、いろいろふかがいな不具合で、実際苦しめられたことも多々ありました。しかし、仕事で使うものであっても私は「家電」がほしい訳じゃなかったんです。
既に故人の恩師が、私が使っているのと同じ初期型MacBook Airを嬉々として封筒にいれて持ち歩いていたこと、今でも忘れません。また、友人がめためたにヒビのはいったiPhoneを使い続けていることに感動したのは、つい最近の話ですが、なにか心にのこっています。
昔の人ならいざしらず、このモノのあふれる現代社会で、物質至上主義とはまた別の、ものに対する愛情を芽生えさせたのは、あなたの美学があってからこそのことです。
そして今やMacが、家電屋でも買えるデバイスになっていることは、本当に奇跡としか、言いようがありません。
そのあなたの美学を、讃えるためにも、私も強く生きていきます。
iMacがいっぱい増えたら、weMacになるのです!
ではまた。
敬具
いいものはいいと言い続けていて良い、ということを。
それは机上の論理や、ただちゃらちゃらいいよねー、とか言いあうとかいうことでなくて、その、いいと信じたものを現実社会でリアライズさせていくということです。それには、その当人にものすごい負荷がかかることでしょう。もちろん当のあなたも、悔しい思いや、悲しい思いを、いくつも重ねてきたのではないでしょうか?
それでもその信念を貫き通す強さは、ガリレオガリレイの「それでも地球はまわっている」的な、貴方流の「完全なる美学」であると私には思えるのです。あなたはその、美学を貫くことの大切さを、教えてくれました。それは何にもまして、人が生きていく上での、かけがえのない糧となるものなのです。
もちろん、何でも貫けばいいということではありません。しかし、これ、というものに対しては、貫くことでしか、その正しさを確立できないものであると、今は思えます。
おもえばMacには、いろんな無理なことを実現しているが故のことと思いますが、いろいろふかがいな不具合で、実際苦しめられたことも多々ありました。しかし、仕事で使うものであっても私は「家電」がほしい訳じゃなかったんです。
既に故人の恩師が、私が使っているのと同じ初期型MacBook Airを嬉々として封筒にいれて持ち歩いていたこと、今でも忘れません。また、友人がめためたにヒビのはいったiPhoneを使い続けていることに感動したのは、つい最近の話ですが、なにか心にのこっています。
昔の人ならいざしらず、このモノのあふれる現代社会で、物質至上主義とはまた別の、ものに対する愛情を芽生えさせたのは、あなたの美学があってからこそのことです。
そして今やMacが、家電屋でも買えるデバイスになっていることは、本当に奇跡としか、言いようがありません。
そのあなたの美学を、讃えるためにも、私も強く生きていきます。
iMacがいっぱい増えたら、weMacになるのです!
ではまた。
敬具
2011年09月02日
ラ・ジュテを見て考えたこと。(第一稿)
未来は可能性であり、現在というパースペクティブからみたら、それは全て仮定。そして現在は未来という仮定を現実にひきよせてリアライズし、過去(アーカイブ)にしていく作業。
未来あるいは過去を、あるいは事象を、コレクションという観点からみたとき、それは良質のコレクションをつくりたいわけで、そのためには現実に落とし込む的確な着地点を見いだすことと、それに耐えうる良質の仮定を見いだすこと。
時間のつながりの中でしか、生きていけないわけで。
だからむかしから皆、時間に言及する。
表現は、過去をなつかしむことも、未来をつくり出すこともできる。
そして都市(現在)をもつくり出すことができる。
過去を生産することも、現実を生産することも、そして未来を生産することもできる。それはかなりイコールだ。
その取捨選択の基準を、どこに持つべきか。
冷静に、そして冷静すぎずに。
理想と現実の葛藤は、良質の過去を生産するために、自身が置かれている位置から、唯一できうること。
もう、自分自身が自発的に夢をもつことはできない。多分。
でもそれは未来をつくりだすことができないということとイコールではない。
否定されても、バカにされても、仕方ない。
自分の中にあるものの存在を糧に、生きていくしか無い。
たわごとはごまかしにすぎない。(必要なごまかしもあるけど。)
たった28分の映像を見ただけで、走り出す思考。転移する視点。
自分と、そして現在とはそれくらい不確定で、それくらい未完成で。という憂いと。
だから可能性と出会える。という喜び。
ラ・ジュテを見て考えたこと。
未来あるいは過去を、あるいは事象を、コレクションという観点からみたとき、それは良質のコレクションをつくりたいわけで、そのためには現実に落とし込む的確な着地点を見いだすことと、それに耐えうる良質の仮定を見いだすこと。
時間のつながりの中でしか、生きていけないわけで。
だからむかしから皆、時間に言及する。
表現は、過去をなつかしむことも、未来をつくり出すこともできる。
そして都市(現在)をもつくり出すことができる。
過去を生産することも、現実を生産することも、そして未来を生産することもできる。それはかなりイコールだ。
その取捨選択の基準を、どこに持つべきか。
冷静に、そして冷静すぎずに。
理想と現実の葛藤は、良質の過去を生産するために、自身が置かれている位置から、唯一できうること。
もう、自分自身が自発的に夢をもつことはできない。多分。
でもそれは未来をつくりだすことができないということとイコールではない。
否定されても、バカにされても、仕方ない。
自分の中にあるものの存在を糧に、生きていくしか無い。
たわごとはごまかしにすぎない。(必要なごまかしもあるけど。)
たった28分の映像を見ただけで、走り出す思考。転移する視点。
自分と、そして現在とはそれくらい不確定で、それくらい未完成で。という憂いと。
だから可能性と出会える。という喜び。
ラ・ジュテを見て考えたこと。
2011年08月22日
どんとに捧ぐ
働いて 働いて どこへゆくやら
くりかえす くりかえす
いいことも やなことも
さみしいよって泣いてても何も元へはもう戻らない
欲しいものはいつでも遠い雲の上
流されて 流されて
汗にうもれて
まちがえて まちがえて
手も足も出せなくて
さみしいよって泣いてても何ももとへはもう もどらない
ほしいものはいつでもとおい雲の上
明日もどこか祭りを探して
この世の向こうへ 連れて行っておくれ
夢の中。。
以上。全て引用。
もう、やぶれかぶれ。
くりかえす くりかえす
いいことも やなことも
さみしいよって泣いてても何も元へはもう戻らない
欲しいものはいつでも遠い雲の上
流されて 流されて
汗にうもれて
まちがえて まちがえて
手も足も出せなくて
さみしいよって泣いてても何ももとへはもう もどらない
ほしいものはいつでもとおい雲の上
明日もどこか祭りを探して
この世の向こうへ 連れて行っておくれ
夢の中。。
以上。全て引用。
もう、やぶれかぶれ。
2011年05月13日
「日経ポケットギャラリー 小倉遊亀」
小倉遊亀。
永遠の憧れである。ずっと以前(多分90年代)、たまたまNHKかなにかでやっていた遊亀さんの特番。遊亀さんは、柿をモチーフに絵を描いているが、なかなか思ったように進まない。多分90代。納得いくように絵が進まないまま、時は流れ、モチーフの柿は痛み、そして柿の季節は終わる。「また、来年ですね。。」とアシスタントの方がやさしく言う。そして柿の絵の続きは来年となる。。しかも本人は90代のおばあちゃん。。。
はっきりいってそれから私は遊亀さんにあこがれている。私がまだ20代前半のころ、吉本隆明は時代を表すことばとして、「革新的である」ということを越え「革新的であり『つづける』時代」といった。それくらい、時代の、世の中の流れは早く、私は自分という自然由来の動物としての生のスピードはすでに社会に追い越されてしまっているという自覚を自分の作品ステートメントとして附した。しかし、その既に追い抜かれている状況の中、自分はそのことを自覚していく事以外に、どうすればよいのか、という答えは見いだせないでいたのも確かだ。
この小さな画集は、遊亀さんの生涯を追うかのごとく年譜順に絵が紹介されており、絵を見ながら彼女の生涯をたどれるのも興味深い。大野一雄氏と同じ横浜の捜真女学校で教えられていた、ということを初めて知る。遊亀さんの方が11歳年上だけど、同時期に捜真に在籍されていたことがあったのだろうか。。その後遊亀さんは43歳で結婚。相手は73歳の小倉鉄樹。山岡鉄舟の高弟だった禅僧。結婚を機に絵を書く事から離れていたが、彼のすすめで再開。それが国立近美所蔵の『浴女その二』。脱衣所の女性達。床の柄と浴衣の柄に、圧倒される。ああ、遊亀さんになりたい。これ、本物が見たい。あと、どちらも陶器と葡萄をモチーフとした「古九谷鉢と葡萄」、横浜美術館所蔵の「並ぶ」も、いくら眺めていてもいい。
最後に遊亀さん本人による「とうとう絵かきになってしまった」という生涯を語る文章が掲載されている。いろいろな人との出会い、遊亀さんにとっての岐路のようなものがいくつかあるのだけれど、その中で、捜真に勤めていた20代の頃、友人に肩を押されて訪れた、あこがれの安田靫彦先生からいただいた言葉
「何年かかってもいいでしょう。自分を出そうとしなくても、見た感じを逃さぬように心がけてゆけば、その都度違う表現となっていつの間にか一枚の葉っぱが手に入りますよ。一枚の葉っぱが手に入ったら、宇宙全体が手に入ります」
という言葉をかみしめ、「何年かかってもいいでしょう。」ということを私は実行しよう、と決心するところがあります。このことが、あの、柿の絵のエピソードにつながり、遊亀さんの表現に対する姿勢が80年も前から培われていたものだった、ということがわかって、ますます遊亀さんを尊敬してしまったのでした。
そして数々の作品を残し、2000年、105歳にて、逝去されました。
遊亀さん、本当に素晴らしい作品と、その生き様を、本当にありがとう。
「日経ポケットギャラリー 小倉遊亀」小倉遊亀
日本経済新聞社 1365円
国立近美に「日本画の前衛」を見に行ったとき、
ミュージアムショップで衝動買いしてしもた
永遠の憧れである。ずっと以前(多分90年代)、たまたまNHKかなにかでやっていた遊亀さんの特番。遊亀さんは、柿をモチーフに絵を描いているが、なかなか思ったように進まない。多分90代。納得いくように絵が進まないまま、時は流れ、モチーフの柿は痛み、そして柿の季節は終わる。「また、来年ですね。。」とアシスタントの方がやさしく言う。そして柿の絵の続きは来年となる。。しかも本人は90代のおばあちゃん。。。
はっきりいってそれから私は遊亀さんにあこがれている。私がまだ20代前半のころ、吉本隆明は時代を表すことばとして、「革新的である」ということを越え「革新的であり『つづける』時代」といった。それくらい、時代の、世の中の流れは早く、私は自分という自然由来の動物としての生のスピードはすでに社会に追い越されてしまっているという自覚を自分の作品ステートメントとして附した。しかし、その既に追い抜かれている状況の中、自分はそのことを自覚していく事以外に、どうすればよいのか、という答えは見いだせないでいたのも確かだ。
この小さな画集は、遊亀さんの生涯を追うかのごとく年譜順に絵が紹介されており、絵を見ながら彼女の生涯をたどれるのも興味深い。大野一雄氏と同じ横浜の捜真女学校で教えられていた、ということを初めて知る。遊亀さんの方が11歳年上だけど、同時期に捜真に在籍されていたことがあったのだろうか。。その後遊亀さんは43歳で結婚。相手は73歳の小倉鉄樹。山岡鉄舟の高弟だった禅僧。結婚を機に絵を書く事から離れていたが、彼のすすめで再開。それが国立近美所蔵の『浴女その二』。脱衣所の女性達。床の柄と浴衣の柄に、圧倒される。ああ、遊亀さんになりたい。これ、本物が見たい。あと、どちらも陶器と葡萄をモチーフとした「古九谷鉢と葡萄」、横浜美術館所蔵の「並ぶ」も、いくら眺めていてもいい。
最後に遊亀さん本人による「とうとう絵かきになってしまった」という生涯を語る文章が掲載されている。いろいろな人との出会い、遊亀さんにとっての岐路のようなものがいくつかあるのだけれど、その中で、捜真に勤めていた20代の頃、友人に肩を押されて訪れた、あこがれの安田靫彦先生からいただいた言葉
「何年かかってもいいでしょう。自分を出そうとしなくても、見た感じを逃さぬように心がけてゆけば、その都度違う表現となっていつの間にか一枚の葉っぱが手に入りますよ。一枚の葉っぱが手に入ったら、宇宙全体が手に入ります」
という言葉をかみしめ、「何年かかってもいいでしょう。」ということを私は実行しよう、と決心するところがあります。このことが、あの、柿の絵のエピソードにつながり、遊亀さんの表現に対する姿勢が80年も前から培われていたものだった、ということがわかって、ますます遊亀さんを尊敬してしまったのでした。
そして数々の作品を残し、2000年、105歳にて、逝去されました。
遊亀さん、本当に素晴らしい作品と、その生き様を、本当にありがとう。
「日経ポケットギャラリー 小倉遊亀」小倉遊亀
日本経済新聞社 1365円
国立近美に「日本画の前衛」を見に行ったとき、
ミュージアムショップで衝動買いしてしもた
2011年04月04日
「コールハースは語る」
レム・コールハース/ハンス・ウルリッヒ・オブリスト
まったく更新できていなかったので、強引にいくどー!
まず、これからいこか。オブリストのインタビューシリーズ。コールハースの仕事と平行し、中国、ヨーロッパ、ソウル、ベルリンについて、その他個別の仕事の引用も含め、様々なことを語っている。しかし、かなりツーカー同士の会話なので、いろいろはしょっている分、すっきりもしていてすぐ読めてしまうが、前提がわからないとよりよく理解できない部分もあり。さておき、いくつか気になった部分をピックアップして勝手に思考展開することにした。
まず、『ヨーロッパのイメージ展』について語っているところから引用
ーーーーーー
「プロパガンダ」というのは、たいていサウンドバイト(わかりやすい手短なメッセージ)であり、ものごとを単純化することです。ところがヨーロッパの美しさは単純化できないところにある。なぜならヨーロッパとは永遠に複雑なプロセスだからです。そして、最終的に僕たちのやっていることは複雑さのプロパガンダであると解釈するに至りました。通常なら、複雑さとプロパガンダというふたつが結びつくことはありませんから、それは矛盾しているわけです。
ーーーーーー引用終わり
これを読んで思ったこと。
今回の地震で海底が最大8m隆起した。(それで津波も瞬間的に大きくなった。その津波は地球を5周した。いわずもがな、観測史上最大)日本の地形は変わった。大地は不安定なものであるという前提で私たちはここに存在している。すべてはエントロピーの増大とともに、地球も、私たちも、ある。
一方、公共的な社会生活の中で「多様性」というもの、これを受け入れて最大限に活かしていくことが、未来社会に向けての様々な解決の方法のひとつと思っていた。これは新しい公共よろしく、新しい社会のあり方だと感じていた。つまり私は「多様性」大賛成派だったわけ。
けれど、「多様性」そのものを受け入れるという事は、すなわち複雑であるという事をそのまま認めるという事は、エントロピーでいうところの、次に拡散した状態を「認める」→つまり確実に終焉に一歩近づいている、ということを認める事とイコールなのでは、と思ってちょっとぞっとした訳です。
以前は「主義」や「イデオロギー」である程度束ねる事、制御することができた=それほど複雑でない社会だった。しかし、今は確実に次の段階。
都市だって、人間という生態系だって、今というポストはただ単に不可逆的な進行の途中段階でしかない。そうすると、今のパースペクティブからものをみようとするとき、土台をもっと果てしなく大きく、敵をもっと遠くの敵にシフトしなくてはいけない、と勝手に焦りだす。ああ、モラトリアムのままでは死にたくない!!
でもでも、今此処に生きているあたしは、それを受け入れるしかない訳ですから、仕方ない。そう、理解して受け入れます。そう「その重さを理解して」それを受け入れようと思います。
さて、話をコールハースに戻し、この引用をしている章についてですが、「ヨーロッパ」について考えるって、当然だけどあるひとつの都市について考えるよりももっと複雑で、もっと大変なこと。しかし、もっとダイナミックなことなんだ、ということもわかる。もはや「建築家」でも「都市計画家」でもないわな、こうなると。それなのに、仕事としては住宅とか、商業建築とかによく戻れるな、というのが、脅威というか…。なんて人なんだ。。
あー、あとはキーワードで持っていこうか、長くなりそうだし。
ひとつめは、「ノスタルジア」。過去の歴史を「ノスタルジア」にかたずけることにより、実際の史実には触れず、やりすごしてしまうという始末。具体例としては「アウシュビッツ」。あー。ありえる。人間の理解、意識には、限界があって当然。だけど、安部公房は言った。労働は最大の忘却。だけど、忘却しないとやっていけない部分と、忘却してはいけない部分があるわけで、それは自動的に選択できることではない。意識的に選択しなくてはいけない。労働を意識的に選択するように、それでも忘れてはいけない事を、意識的に選択しないといけないんだ。寝てもさめても、状況はあまりかわらなく、ついていくのがせいいっぱいだよ。時間は否応無しに流れていくのだ。。。
それからまた別のキーワードは「政治」。あ、これ、引用しないとやっぱ難しい。
ーーーーーー
「文化的プロジェクト」というとらえ方は今や、非常に狭いものだと思います。なぜなら、文化も市場経済の一部になってしまったからです。市場がまだ完全に喰い尽くしていない領域は政治だけでしょう。商業的な力やひどく制限された力といった外面を超えた真の想像力のことを考えているのなら、政治こそ文化なのです。これはグローバリゼーションのポジティブな表れでもあるのですが、参加するための最良の方法は文化ではなく政治を通してであるという、実にラディカルな時代に我々は生きているということです。
ーーーーーー引用終わり。
と、ここまで引用しておきながら、これについては、既に読了してこの後に書く予定の、辛美沙「 アート・インダストリー : 究極のコモディティーを求めて 」(美学出版、2008年)と、あとは金関係の本ね、「シルビオ・ゲゼル入門」とかハンス アビング「アーティストはなぜ貧乏なのか」で語ることにしよう。コールハースがハンスと同じオランダ人というところが興味深いね。だけどオランダ人といえば、やっぱスピノザだけどね!!
はー。今週の休日おわり。ついでに年度末も終われ!!
「コールハースは語る」
レム・コールハース/ハンス・ウルリッヒ・オブリスト
訳:滝口範子
あたしはなんでジャーディー&パートナーシップが好きだったのか?ということも真面目に考えたい。。
まず、これからいこか。オブリストのインタビューシリーズ。コールハースの仕事と平行し、中国、ヨーロッパ、ソウル、ベルリンについて、その他個別の仕事の引用も含め、様々なことを語っている。しかし、かなりツーカー同士の会話なので、いろいろはしょっている分、すっきりもしていてすぐ読めてしまうが、前提がわからないとよりよく理解できない部分もあり。さておき、いくつか気になった部分をピックアップして勝手に思考展開することにした。
まず、『ヨーロッパのイメージ展』について語っているところから引用
ーーーーーー
「プロパガンダ」というのは、たいていサウンドバイト(わかりやすい手短なメッセージ)であり、ものごとを単純化することです。ところがヨーロッパの美しさは単純化できないところにある。なぜならヨーロッパとは永遠に複雑なプロセスだからです。そして、最終的に僕たちのやっていることは複雑さのプロパガンダであると解釈するに至りました。通常なら、複雑さとプロパガンダというふたつが結びつくことはありませんから、それは矛盾しているわけです。
ーーーーーー引用終わり
これを読んで思ったこと。
今回の地震で海底が最大8m隆起した。(それで津波も瞬間的に大きくなった。その津波は地球を5周した。いわずもがな、観測史上最大)日本の地形は変わった。大地は不安定なものであるという前提で私たちはここに存在している。すべてはエントロピーの増大とともに、地球も、私たちも、ある。
一方、公共的な社会生活の中で「多様性」というもの、これを受け入れて最大限に活かしていくことが、未来社会に向けての様々な解決の方法のひとつと思っていた。これは新しい公共よろしく、新しい社会のあり方だと感じていた。つまり私は「多様性」大賛成派だったわけ。
けれど、「多様性」そのものを受け入れるという事は、すなわち複雑であるという事をそのまま認めるという事は、エントロピーでいうところの、次に拡散した状態を「認める」→つまり確実に終焉に一歩近づいている、ということを認める事とイコールなのでは、と思ってちょっとぞっとした訳です。
以前は「主義」や「イデオロギー」である程度束ねる事、制御することができた=それほど複雑でない社会だった。しかし、今は確実に次の段階。
都市だって、人間という生態系だって、今というポストはただ単に不可逆的な進行の途中段階でしかない。そうすると、今のパースペクティブからものをみようとするとき、土台をもっと果てしなく大きく、敵をもっと遠くの敵にシフトしなくてはいけない、と勝手に焦りだす。ああ、モラトリアムのままでは死にたくない!!
でもでも、今此処に生きているあたしは、それを受け入れるしかない訳ですから、仕方ない。そう、理解して受け入れます。そう「その重さを理解して」それを受け入れようと思います。
さて、話をコールハースに戻し、この引用をしている章についてですが、「ヨーロッパ」について考えるって、当然だけどあるひとつの都市について考えるよりももっと複雑で、もっと大変なこと。しかし、もっとダイナミックなことなんだ、ということもわかる。もはや「建築家」でも「都市計画家」でもないわな、こうなると。それなのに、仕事としては住宅とか、商業建築とかによく戻れるな、というのが、脅威というか…。なんて人なんだ。。
あー、あとはキーワードで持っていこうか、長くなりそうだし。
ひとつめは、「ノスタルジア」。過去の歴史を「ノスタルジア」にかたずけることにより、実際の史実には触れず、やりすごしてしまうという始末。具体例としては「アウシュビッツ」。あー。ありえる。人間の理解、意識には、限界があって当然。だけど、安部公房は言った。労働は最大の忘却。だけど、忘却しないとやっていけない部分と、忘却してはいけない部分があるわけで、それは自動的に選択できることではない。意識的に選択しなくてはいけない。労働を意識的に選択するように、それでも忘れてはいけない事を、意識的に選択しないといけないんだ。寝てもさめても、状況はあまりかわらなく、ついていくのがせいいっぱいだよ。時間は否応無しに流れていくのだ。。。
それからまた別のキーワードは「政治」。あ、これ、引用しないとやっぱ難しい。
ーーーーーー
「文化的プロジェクト」というとらえ方は今や、非常に狭いものだと思います。なぜなら、文化も市場経済の一部になってしまったからです。市場がまだ完全に喰い尽くしていない領域は政治だけでしょう。商業的な力やひどく制限された力といった外面を超えた真の想像力のことを考えているのなら、政治こそ文化なのです。これはグローバリゼーションのポジティブな表れでもあるのですが、参加するための最良の方法は文化ではなく政治を通してであるという、実にラディカルな時代に我々は生きているということです。
ーーーーーー引用終わり。
と、ここまで引用しておきながら、これについては、既に読了してこの後に書く予定の、辛美沙「 アート・インダストリー : 究極のコモディティーを求めて 」(美学出版、2008年)と、あとは金関係の本ね、「シルビオ・ゲゼル入門」とかハンス アビング「アーティストはなぜ貧乏なのか」で語ることにしよう。コールハースがハンスと同じオランダ人というところが興味深いね。だけどオランダ人といえば、やっぱスピノザだけどね!!
はー。今週の休日おわり。ついでに年度末も終われ!!
「コールハースは語る」
レム・コールハース/ハンス・ウルリッヒ・オブリスト
訳:滝口範子
あたしはなんでジャーディー&パートナーシップが好きだったのか?ということも真面目に考えたい。。
2010年11月03日
「君が壊れてしまう前に」島田雅彦
最近、心が疲れています。で、重かったらやだなーと思って読んだらぜーんぜんそんなことなくて、夜寝る前とか、朝早く起きたときとかに読んでしまいました。基本中学2年男子の日記を盗み読みしているような感覚(罪悪感?)。これ、どれくらい自分の経験がはいってるのかしら…。
私の中学時代は部活に明け暮れていたけど、思えば中2というのは、人間関係も落ち着きだし、いい具合に内輪に守られながらいい具合に他人や社会に接して、まだそんなに受験とか現実と理想のギャップとかに深刻でなく、人生に自由と希望を持って対峙できるほんのわずかな時期だったとあらためて思います。ので、人生におけるこの1年をピンポイントで小説の題材にしようという島田兄さま、さすがです。
自分の中学時代のこととかいろいろ思い出して、あー、歳とったなもー、と気づかせてくれもしましたけどね!
1年を過ごすうちに、酸いも甘いも少しずついろいろ経験して、1年前とは確実に違う人間になっているなーという最近薄れつつある感覚がなつかしい…。おお、いかんいかん、同じ24時間×365日だっていうのに。自らルーティーンになるのはいやだー!!
途中で変調を入れるあたりも、さすが、クラシック音楽に精通していらっしゃる島田兄さまの仕業。
人になるために一生懸命に生きるピノキオと、何も考えずに全てをとろけさせる怠惰でありつづけるくまのプーの対比、そして人はそのどちらにもなれるということ、自分にとってのピノキオとプー、自分の中のピノキオとプー…。しかし、解説にも引用されている
「ぼくたちはみな、マリオネットであり、ぬいぐるみなのであるけれども、奴隷ではない。」
というところ、マジ、泣けました。
ピノキオとプーさんのたとえで思想を語るところからして、この本、ティーン向けなんだろうけど…元ティーンにも何かしら別の効果があるかと思います。
意外と読後の爽快感がありました。
しかし、昔読んだ島田作品とは何かちがうよな…。
「君が壊れてしまう前に」島田雅彦
ジャイブ ピュアフル文庫 682円
私の中学時代は部活に明け暮れていたけど、思えば中2というのは、人間関係も落ち着きだし、いい具合に内輪に守られながらいい具合に他人や社会に接して、まだそんなに受験とか現実と理想のギャップとかに深刻でなく、人生に自由と希望を持って対峙できるほんのわずかな時期だったとあらためて思います。ので、人生におけるこの1年をピンポイントで小説の題材にしようという島田兄さま、さすがです。
自分の中学時代のこととかいろいろ思い出して、あー、歳とったなもー、と気づかせてくれもしましたけどね!
1年を過ごすうちに、酸いも甘いも少しずついろいろ経験して、1年前とは確実に違う人間になっているなーという最近薄れつつある感覚がなつかしい…。おお、いかんいかん、同じ24時間×365日だっていうのに。自らルーティーンになるのはいやだー!!
途中で変調を入れるあたりも、さすが、クラシック音楽に精通していらっしゃる島田兄さまの仕業。
人になるために一生懸命に生きるピノキオと、何も考えずに全てをとろけさせる怠惰でありつづけるくまのプーの対比、そして人はそのどちらにもなれるということ、自分にとってのピノキオとプー、自分の中のピノキオとプー…。しかし、解説にも引用されている
「ぼくたちはみな、マリオネットであり、ぬいぐるみなのであるけれども、奴隷ではない。」
というところ、マジ、泣けました。
ピノキオとプーさんのたとえで思想を語るところからして、この本、ティーン向けなんだろうけど…元ティーンにも何かしら別の効果があるかと思います。
意外と読後の爽快感がありました。
しかし、昔読んだ島田作品とは何かちがうよな…。
「君が壊れてしまう前に」島田雅彦
ジャイブ ピュアフル文庫 682円
2010年10月22日
「一度死んでみますか?ー漫談・メメントモリ」 島田雅彦・しりあがり寿
島田雅彦といえば、私の大学時代の愛読書。「夢使い」とか「アルマジロ王」とか、もう一度読みたい名作を今度実家から持ってこよう…。で、ここ10年くらいご無沙汰していたので、近作を何冊かAmazonで購入するなか、ついで買いしてしまいました。で、すぐ読んじゃった。島田様、永遠の青二才かと思いきや、おやじになってますー!
しかし、チョイ悪オヤジとかナイスミドルとかそういうんでなく、青二才オヤジとでもいいましょうか、生々しくて、言葉のはしばしに憂いと皮肉と真実と欲望がないまぜになって、とにかく素で素敵でした。
もともと別々のところで連載されていた、主に2人の往復書簡と対談が交互にでてきます。テーマが毎回、バイト遍歴とか、旅行とか、スランプとか、病気自慢とかで、おとな小学生みたいな会話をしてるんです。ほんと素敵。
とおもうと、タイトルに「メメントモリ」とあるように、死やニートなどの重い話題についても軽く話していて。息抜きや気分転換に最適でした。
島田雅彦氏の面白い逸話は、学生の頃アルバイトで新聞配達を3ヶ月していたことがあって、最初は約200件もの配達が終了するまでの所要タイムを縮めるために試行錯誤してどんどんベストタイムを更新していくのがモチベーションとなっていたが、もうこれ以上タイムが縮まらないというところまで来たと同時に、労働意識も衰退した、という話。あるある。島田雅彦さえも、このような経験をしているというのが、泣けるかんじです。
この話の冒頭、島田氏は「問題なのは偏った頭や体の使い方をさせられるのが労働というものです。」と諭すように言い切る。確かに!そして最後は「人に喜ばれる仕事がしたいと私は日頃から思っていますが、実際に人が喜ぶ顔を見ると、何か間違ったことをしたのではないかと不安になってしまいます。島田雅彦拝」と結んでいて、そのあまのじゃく具合がまた素敵でした。
また、島田氏の親戚の数学者が、ものすごく難しいことをしていて、とりあえずそのテーマは即社会の役に立つというわけでもなく、彼の論文も世界で10人くらいしか理解できず、日本では3人くらいしか理解できず、その3人もみんな彼の知り合いというくらいマイナーで難解なもののようなのですが、その彼が、藤沢の路上でへたくそな路上ミュージシャンのまわりに15人くらいの聴衆がいるのを見て、思わず嫉妬した、という話。受ける!あるある!人に受け入れられたいという願望は誰にでもあり、それを「被承認願望」というそうですが、承認される側だけでなく、承認する側だっていろいろな人がいるわけで、本当の意味で良いものばかりが「承認」されるわけではないわけし、だからめんどいのだよね。誰のせいでもなく「非合理」なことによって「不幸」が起ることは避けられない訳で、だからそういうことにいちいちかまってはいけないって思うしかないのよね。そういえば占いに「あなたの良さは内面にあるので、一目惚れされることはあまりありません」とかかれて、むかついたというか、落ち込んだのは「非承認願望」が原因でしょうか?
最後にしりあがりさんの言葉で感心した部分なのですが、子どもは甘いお菓子を欲しがるものですが、親は子を思ってそんなにたくさんお菓子を与えない。が、資本主義は、体に悪かろうが何だろうが、欲しがるものをどんどんあたえるってことですよね。と。うむむ、なるほど。怖いね。
とにかく私的にはとてもなごめました。あまのじゃくで青二才な大人の小学生の男子の会話はとっても新鮮でありました。(これ、褒め言葉ですからね!)
「一度死んでみますか?ー漫談・メメントモリ」 島田雅彦・しりあがり寿
PHP新書 756円
しかし、チョイ悪オヤジとかナイスミドルとかそういうんでなく、青二才オヤジとでもいいましょうか、生々しくて、言葉のはしばしに憂いと皮肉と真実と欲望がないまぜになって、とにかく素で素敵でした。
もともと別々のところで連載されていた、主に2人の往復書簡と対談が交互にでてきます。テーマが毎回、バイト遍歴とか、旅行とか、スランプとか、病気自慢とかで、おとな小学生みたいな会話をしてるんです。ほんと素敵。
とおもうと、タイトルに「メメントモリ」とあるように、死やニートなどの重い話題についても軽く話していて。息抜きや気分転換に最適でした。
島田雅彦氏の面白い逸話は、学生の頃アルバイトで新聞配達を3ヶ月していたことがあって、最初は約200件もの配達が終了するまでの所要タイムを縮めるために試行錯誤してどんどんベストタイムを更新していくのがモチベーションとなっていたが、もうこれ以上タイムが縮まらないというところまで来たと同時に、労働意識も衰退した、という話。あるある。島田雅彦さえも、このような経験をしているというのが、泣けるかんじです。
この話の冒頭、島田氏は「問題なのは偏った頭や体の使い方をさせられるのが労働というものです。」と諭すように言い切る。確かに!そして最後は「人に喜ばれる仕事がしたいと私は日頃から思っていますが、実際に人が喜ぶ顔を見ると、何か間違ったことをしたのではないかと不安になってしまいます。島田雅彦拝」と結んでいて、そのあまのじゃく具合がまた素敵でした。
また、島田氏の親戚の数学者が、ものすごく難しいことをしていて、とりあえずそのテーマは即社会の役に立つというわけでもなく、彼の論文も世界で10人くらいしか理解できず、日本では3人くらいしか理解できず、その3人もみんな彼の知り合いというくらいマイナーで難解なもののようなのですが、その彼が、藤沢の路上でへたくそな路上ミュージシャンのまわりに15人くらいの聴衆がいるのを見て、思わず嫉妬した、という話。受ける!あるある!人に受け入れられたいという願望は誰にでもあり、それを「被承認願望」というそうですが、承認される側だけでなく、承認する側だっていろいろな人がいるわけで、本当の意味で良いものばかりが「承認」されるわけではないわけし、だからめんどいのだよね。誰のせいでもなく「非合理」なことによって「不幸」が起ることは避けられない訳で、だからそういうことにいちいちかまってはいけないって思うしかないのよね。そういえば占いに「あなたの良さは内面にあるので、一目惚れされることはあまりありません」とかかれて、むかついたというか、落ち込んだのは「非承認願望」が原因でしょうか?
最後にしりあがりさんの言葉で感心した部分なのですが、子どもは甘いお菓子を欲しがるものですが、親は子を思ってそんなにたくさんお菓子を与えない。が、資本主義は、体に悪かろうが何だろうが、欲しがるものをどんどんあたえるってことですよね。と。うむむ、なるほど。怖いね。
とにかく私的にはとてもなごめました。あまのじゃくで青二才な大人の小学生の男子の会話はとっても新鮮でありました。(これ、褒め言葉ですからね!)
「一度死んでみますか?ー漫談・メメントモリ」 島田雅彦・しりあがり寿
PHP新書 756円
2010年10月18日
「日高敏隆選集[ 人間はどういう動物か」日高敏隆
昨年秋に亡くなられた、動物行動学者、日高敏隆氏の全集。この第8巻は、動物行動学的見地から「人間」を語っている。日高氏はローレンツの「ソロモンの指輪」やドーキンスの「利己的な遺伝子」等を訳したことでも有名。死んだうちの父と同じ1930年生まれ。そしてこの本のあとがきは、日高氏が亡くなる1年半程前の2008年6月に書かれている。。。
気になった部分をいくつかピックアップ
言語について
言語はコミュニケーションの手段として発明された訳ではなく、最初は自己の概念を整理するためのツールとして言語ができたのではないか、というのが日高氏の意見。たとえば「右」とか「左」とか固有のものや状態を指す必要が増えれば増える程、そこに「言語」がなくては混乱してしまうし、思考が先に進まない。で、そのために言語をつくった。つくってみると、人に伝わるということがわかり、コミュニケーションにも使うようになった、と。確かに、既に言語を習得している現在に生まれる人間の言語習得の順番はコミュニケーション→思考の整理、だが、言語そのものの生成の理由としての進化としてはその逆で、思考の整理→コミュニケーションである、というのはうなずける。
そして、言語を使って思考を整理→「思想」が生まれる→それをまたコミュニケーションしていく→いろいろなものを発見していく→「死」を発見してしまう→気持ちの整理をするために「宗教」をつくる。と、展開。
なるほど、こう考えると、これまで「言語」を発明したがために、いろいろな「概念」をつくってきた時代=イデオロギー的な時代、だったんだとあらためて思う。そして今、さらに言語を異化してくようなツールとして「インターネット」がこのように発達している訳で、これは「言語」をベースとしてはいるが、これまで発見してきた「イデオロギー」とは別の次元ものだと思うんだけど、未来的に俯瞰したら同じなのかな?まあ、宗教を発明したときだって、かなりな思考の変換はあったのだろうだから、人間の進化的にいえばちょろいものなのかな?
文化について。
典型的日本人の誰かが、もしイギリスに生まれていたら、英語をペラペラとしゃべり、日本語なんてできなかっただろう。「文化」とはそういうもので、もとは、基本的なものはもって生まれていて自分のごく身近なところから取り込んだものを使って具現化したものが「文化」というもの。つまり「慣れ」や、何が身近にあったかという問題であるのに、それが蓄積されていくと、まるで「日本文化」とか「中国文化」という固有の確固たるものがあるかのように語られるのはおかしいわけで、「人間という動物のもっている文化というものはなにかということをもうすこし動物的に考えてみたい。」という。
それが「慣れ」の問題であるということは養老孟司の「バカの壁」と同じような考え方なのですごく新しい見方ではないのですが、それがもたらす誤解というか社会的認識についてもっと問題化すべき、ということですよね、それはそうだ。
争いと美学の問題
戦争や紛争等の争いは、人間の遺伝子的に組み込まれている「攻撃性」の問題はあるが、それだけでなくもうひとつの根源は「宗教」だとも言われている。日高氏はそれを「美学」という言葉で説明できないだろうか、と言っている。
そう考えると「脳のくせ」=「バカの壁」=「美学」かもしれない。
「美学」というとかっこいいけど、「美学」って「趣き」とか「詫び・寂び」とかさ、「イデオロギー」ではなく、論理的な人からみればひどく恣意的なことよね。でも確かにそこに共鳴し、それを狂信的に信じて疑わないことはあるし、むしろ意識してそこに収斂しているわけでなくそこに引きつけられていってしまうというか、その現象そのものが「美学」だよね。生き方そのものというかさ、他人はどうあれ、自分はこうしかできないっていう、もう論理とかではない世界。もちろんそこに具体的な経験や疑似体験、自分のいた環境なんかが左右してくるわけで。そう考えると、先天的に遺伝子に組み込まれている動物的なもの(この場合は「攻撃性」)と対をなすものとして経験値として後天的に擦り込まれていった「美学」というのは、現実の事象を形成しているコンビとしては、ありえるコンビだと思う。
遠距離感覚における触覚ーテクスチュア(きめ)について
これ、佐々木正人の、というか、ギブソンの話ですね。で、このことについて日高氏は「都市緑化技術」という雑誌で、都市デザインの中にこの「テクスチュア」を見る視線を持つべきだといっているのですね。建築やインテリアは一度決めたテクスチュアはそう変わらない。壁紙を変えたり、外壁を塗り替えたりリフォームしない限りは。けれど、都市の樹木は、季節により、風により、年月により、刻々とそのテクスチュアがかわっていく訳で、そのことが「人を楽しませる」。だから落ち葉の処理が大変だからといって落葉樹を植えることをやめたりしちゃいかん、といっている。
なるほど、自然からアフォードされなくなれば、人はアホになるってわけか。動物行動学者が言うと、なんかこう説得力ありますね!しかし、人という動物、「楽をする」ということも覚えちゃったんですね、それでしかも所作を正当化するわけです。「掃除が大変」「面倒をみるのが大変」「そんなことしたら問題がおきる」とか。でも、その面倒なことをする中に、自然やその他のことを「発見」する可能性があるわけでさ、まさにクリエイティビティの始まりの部分なのであって、「楽をする」=「退化」でしかないわけだよね。あー、いかんいかん。若いうちの苦労は買ってでもしろっていうけど、若くなくたっておんなじだと思うのよ、苦労の種類が変わるだけであって。年をとっても、「苦労」から逃げては、おもろい仕事なんかできなくなるわけで、それだけは避けたい。と思う。ぼけ防止アフォードって、どうかしら、意味不明?
「人間の論理」と「自然の論理」
都市計画は全て「人間の論理」である。里山だって「人間の論理」だ。それがいけないという訳ではないけれど、そればっかりになっては人はおかしくなっちゃうよ、と言っている。
しかし、そればっかりにならないようにする、そのバランスをとるのだって「人間」しかできない。だから、もっと高いところから俯瞰しなさい、ということなのかもしれない。
おもしろかった逸話が、日高氏の娘がイチゴを与えられたとき、綺麗にあらってへたをとってあるのに、いっこうに食べようとしないので、それを雑草が生い茂る庭にばらまくと、娘ははだしのまま庭にかけだして「あった!またあった!」とイチゴを探し、拾っては食べ、結局全部食べてしまった、という話。この「探す楽しさ」が忘れられている、というのだ。なるほど。だからみんな「ネット」から情報探して喜んでるんだ。けどさ、探す方法がもっと多様な方がいいよな。
この章の最後のくだりを引用==
ぼくは思った。今はこの「探す楽しさ」が忘れられているのではないか。
昔、人類はこうやって木の実や果物を探して食べていたにちがいない。食べなければ飢えてしまうから、なんとか食べるほかない。けれど、探すことが辛くてたまらないと感じられたら、探すのをやめてしまうだろう。それでは生きていけない。そこで、探すこと自体が楽しく、見つけて食べるのも楽しいようにものごとができあがっていたのではないか?
都市をすべて偶然に任せるわけにはいかない。しかし人は都市計画によって「与えられた」ものだけでは、けっして心から満足することはないだろう。人間はそのときそのときに漠然となにかを欲する。それを求めたり、探したりするという情緒的なものの大切さを忘れてはならない。
==引用終わり
動物行動学者がいうと、説得力あるなー。しかし、最近の若者が、仕事上で、言われたことしかやらないのはなんでなんだろうねー。クリエイティビティというか、発見する能力がないのね。でもさ、それって発見する喜びをしらないまま、ここまで生きてきてるってことなわけでしょ、だとするとその人たちが喜びを見いだすところはどんなところなのかなーということを、今度聞いてみよう。というか、あんま興味ないんだけど、それではすまない中間管理職の辛さなり。
「共生」
生物学では「共生」という概念に疑問が感じられているのだそうである。昔考えられていたように、生物たちは「生態系」というひとつのシステムを成しているわけではなく、それぞれの種を維持するための社会組織があるわけでもないらしいからである。個々の遺伝子は、自分自身の遺伝子を残す、ということしか考えていないから、他の動物を殺してまで、自分が生き残ろうとする。助け合って、種を維持していこうなんていう「ジャングル大帝」みたいな美談はないのである。
しかし、えさを追い求める昆虫と、受粉をすることで種を増やそうとする花との関係は、それぞれの「利己的」なせめぎあいの間でうまれた見事な「共生」関係である。共生は目的ではなく、手段であり、結果である。ということを忘れてはならない。
==引用はじめ
共生とは、異なる理論のせめぎあいの中で生まれてくるものであり、そうであるからこそ、そこに従来のとは異なった新しい美も生まれてくるのかもしれないのだと思う。
==引用終わり
だから「共生」を目的とうたわれたとき、それ以前の目的まで視野に入れることが重要だと思うんだよね。けれど実はその部分が「資本主義的金儲け」だったりとかさ「政治的配慮」だったりとかさ、そういうものをダイレクトに言わないために「共生」っていうのは、ずるいなって思うんだよね。はっきり言えばいいのに「多様性会議」とかいってさ。結局、人口問題も高齢化問題もエネルギー問題も環境問題も、人間の利己的な問題にしかすぎないという前提は暗黙の了解だけど、だからといって「人間の」が「自国の」になって「俺の」になっちゃうのは困るなー。
レフェリー
面白い逸話。以前、「ネイチャー」という雑誌に、編集長が面白いと思ったら載せてしまうというコーナーがあった。科学的な裏付けがまだ何もなかったり、アイデアだけだったりとかしても、面白ければ編集長の独断と偏見で掲載していた。しかしそれはよくないということで、あるときから3人のレフェリーをつけることにした。3人ともが「これはいい」と思うものを載せるようにしたら、とたんにそのコーナーはつまらなくなってしまった、という話。
レフェリーがいることでレベルが上がる、という一方、レフェリーがいるおかげでアイデアがつぶされる、という部分もある、というお話。「先端」というのは常にむずかしいハードルがありますね、科学も藝術も。
この花は美しいと、誰が決めるか?
もうひとつ面白い逸話。フランスにいって、家に綺麗なお花が生けてあるのを見て「この花はきれいだ」というと「なぜだ?」と聞かれた。次の家でもその次の家でも同じことが続いたので「なぜ、なぜだと聞くのだ?」と聞いたところ、「さあ、なぜだかわからない」と相手も困ってしまったという。松本人志のコントみたいですね。日高氏はこのことをヨーロッパが科学を生んだ理由としてとらえた。つまり、ヨーロッパでは「この花は美しい」という断定は誰もできない、神様しかできない。「私はこの花が美しいと思う」ということはできても、「これは美しい」と断定する権利は誰にもない。だから、「自分はこう思う」というと、「いや、俺は思う」と、議論ができてくる。これが科学というものの起こりではないか、というのが日高氏の推察。
利己的な「死」
年を重ねると、見栄えや動きが、若いものよりも劣ってくるのは、動物として人間の遺伝子にプログラムされていること。いつまでも年寄りが若者と同じ土俵で戦えていたら、若い人が出る=人間が進化するすきがなくなってしまう。そして「老い」のプログラムと同じ理由で「死」も既にプログラミングされている。高齢化社会が叫ばれる中、アンチエイジングよりも、年寄りとして何をするべきか、を考えることに時間を割いた方がよく、死ぬときはさっさと死んで、次の世代にバトンを渡した方がよい、ということを、本人が亡くなられる1年前に編んでいるわけで、それなりにご自分の死期も自覚されていたのだろうと考えると、ちょっと鳥肌が立った。最後まで、動物行動学者としての真摯な発言を怠らなかった、素晴らしい人だ。
人間と動物はどう違うか?ということではなく、「人間はどういう動物か?」という視点で考えることの重要性をおっしゃっております。その違いは確かにでかい。
かなり前に読み終えていたのですがとても良い読書でした。また間をあけて読もうと思います。また、いきなり8巻から読んでもうたのですが、他の巻も気になりだしています。実は本屋さんんで偶然の出会いで衝動買いしたのですが、よい出会いでした。
というわけで、ながくなっちった。
「日高敏隆選集[ 人間はどういう動物か」日高敏隆
ランダムハウス講談社 2100円
気になった部分をいくつかピックアップ
言語について
言語はコミュニケーションの手段として発明された訳ではなく、最初は自己の概念を整理するためのツールとして言語ができたのではないか、というのが日高氏の意見。たとえば「右」とか「左」とか固有のものや状態を指す必要が増えれば増える程、そこに「言語」がなくては混乱してしまうし、思考が先に進まない。で、そのために言語をつくった。つくってみると、人に伝わるということがわかり、コミュニケーションにも使うようになった、と。確かに、既に言語を習得している現在に生まれる人間の言語習得の順番はコミュニケーション→思考の整理、だが、言語そのものの生成の理由としての進化としてはその逆で、思考の整理→コミュニケーションである、というのはうなずける。
そして、言語を使って思考を整理→「思想」が生まれる→それをまたコミュニケーションしていく→いろいろなものを発見していく→「死」を発見してしまう→気持ちの整理をするために「宗教」をつくる。と、展開。
なるほど、こう考えると、これまで「言語」を発明したがために、いろいろな「概念」をつくってきた時代=イデオロギー的な時代、だったんだとあらためて思う。そして今、さらに言語を異化してくようなツールとして「インターネット」がこのように発達している訳で、これは「言語」をベースとしてはいるが、これまで発見してきた「イデオロギー」とは別の次元ものだと思うんだけど、未来的に俯瞰したら同じなのかな?まあ、宗教を発明したときだって、かなりな思考の変換はあったのだろうだから、人間の進化的にいえばちょろいものなのかな?
文化について。
典型的日本人の誰かが、もしイギリスに生まれていたら、英語をペラペラとしゃべり、日本語なんてできなかっただろう。「文化」とはそういうもので、もとは、基本的なものはもって生まれていて自分のごく身近なところから取り込んだものを使って具現化したものが「文化」というもの。つまり「慣れ」や、何が身近にあったかという問題であるのに、それが蓄積されていくと、まるで「日本文化」とか「中国文化」という固有の確固たるものがあるかのように語られるのはおかしいわけで、「人間という動物のもっている文化というものはなにかということをもうすこし動物的に考えてみたい。」という。
それが「慣れ」の問題であるということは養老孟司の「バカの壁」と同じような考え方なのですごく新しい見方ではないのですが、それがもたらす誤解というか社会的認識についてもっと問題化すべき、ということですよね、それはそうだ。
争いと美学の問題
戦争や紛争等の争いは、人間の遺伝子的に組み込まれている「攻撃性」の問題はあるが、それだけでなくもうひとつの根源は「宗教」だとも言われている。日高氏はそれを「美学」という言葉で説明できないだろうか、と言っている。
そう考えると「脳のくせ」=「バカの壁」=「美学」かもしれない。
「美学」というとかっこいいけど、「美学」って「趣き」とか「詫び・寂び」とかさ、「イデオロギー」ではなく、論理的な人からみればひどく恣意的なことよね。でも確かにそこに共鳴し、それを狂信的に信じて疑わないことはあるし、むしろ意識してそこに収斂しているわけでなくそこに引きつけられていってしまうというか、その現象そのものが「美学」だよね。生き方そのものというかさ、他人はどうあれ、自分はこうしかできないっていう、もう論理とかではない世界。もちろんそこに具体的な経験や疑似体験、自分のいた環境なんかが左右してくるわけで。そう考えると、先天的に遺伝子に組み込まれている動物的なもの(この場合は「攻撃性」)と対をなすものとして経験値として後天的に擦り込まれていった「美学」というのは、現実の事象を形成しているコンビとしては、ありえるコンビだと思う。
遠距離感覚における触覚ーテクスチュア(きめ)について
これ、佐々木正人の、というか、ギブソンの話ですね。で、このことについて日高氏は「都市緑化技術」という雑誌で、都市デザインの中にこの「テクスチュア」を見る視線を持つべきだといっているのですね。建築やインテリアは一度決めたテクスチュアはそう変わらない。壁紙を変えたり、外壁を塗り替えたりリフォームしない限りは。けれど、都市の樹木は、季節により、風により、年月により、刻々とそのテクスチュアがかわっていく訳で、そのことが「人を楽しませる」。だから落ち葉の処理が大変だからといって落葉樹を植えることをやめたりしちゃいかん、といっている。
なるほど、自然からアフォードされなくなれば、人はアホになるってわけか。動物行動学者が言うと、なんかこう説得力ありますね!しかし、人という動物、「楽をする」ということも覚えちゃったんですね、それでしかも所作を正当化するわけです。「掃除が大変」「面倒をみるのが大変」「そんなことしたら問題がおきる」とか。でも、その面倒なことをする中に、自然やその他のことを「発見」する可能性があるわけでさ、まさにクリエイティビティの始まりの部分なのであって、「楽をする」=「退化」でしかないわけだよね。あー、いかんいかん。若いうちの苦労は買ってでもしろっていうけど、若くなくたっておんなじだと思うのよ、苦労の種類が変わるだけであって。年をとっても、「苦労」から逃げては、おもろい仕事なんかできなくなるわけで、それだけは避けたい。と思う。ぼけ防止アフォードって、どうかしら、意味不明?
「人間の論理」と「自然の論理」
都市計画は全て「人間の論理」である。里山だって「人間の論理」だ。それがいけないという訳ではないけれど、そればっかりになっては人はおかしくなっちゃうよ、と言っている。
しかし、そればっかりにならないようにする、そのバランスをとるのだって「人間」しかできない。だから、もっと高いところから俯瞰しなさい、ということなのかもしれない。
おもしろかった逸話が、日高氏の娘がイチゴを与えられたとき、綺麗にあらってへたをとってあるのに、いっこうに食べようとしないので、それを雑草が生い茂る庭にばらまくと、娘ははだしのまま庭にかけだして「あった!またあった!」とイチゴを探し、拾っては食べ、結局全部食べてしまった、という話。この「探す楽しさ」が忘れられている、というのだ。なるほど。だからみんな「ネット」から情報探して喜んでるんだ。けどさ、探す方法がもっと多様な方がいいよな。
この章の最後のくだりを引用==
ぼくは思った。今はこの「探す楽しさ」が忘れられているのではないか。
昔、人類はこうやって木の実や果物を探して食べていたにちがいない。食べなければ飢えてしまうから、なんとか食べるほかない。けれど、探すことが辛くてたまらないと感じられたら、探すのをやめてしまうだろう。それでは生きていけない。そこで、探すこと自体が楽しく、見つけて食べるのも楽しいようにものごとができあがっていたのではないか?
都市をすべて偶然に任せるわけにはいかない。しかし人は都市計画によって「与えられた」ものだけでは、けっして心から満足することはないだろう。人間はそのときそのときに漠然となにかを欲する。それを求めたり、探したりするという情緒的なものの大切さを忘れてはならない。
==引用終わり
動物行動学者がいうと、説得力あるなー。しかし、最近の若者が、仕事上で、言われたことしかやらないのはなんでなんだろうねー。クリエイティビティというか、発見する能力がないのね。でもさ、それって発見する喜びをしらないまま、ここまで生きてきてるってことなわけでしょ、だとするとその人たちが喜びを見いだすところはどんなところなのかなーということを、今度聞いてみよう。というか、あんま興味ないんだけど、それではすまない中間管理職の辛さなり。
「共生」
生物学では「共生」という概念に疑問が感じられているのだそうである。昔考えられていたように、生物たちは「生態系」というひとつのシステムを成しているわけではなく、それぞれの種を維持するための社会組織があるわけでもないらしいからである。個々の遺伝子は、自分自身の遺伝子を残す、ということしか考えていないから、他の動物を殺してまで、自分が生き残ろうとする。助け合って、種を維持していこうなんていう「ジャングル大帝」みたいな美談はないのである。
しかし、えさを追い求める昆虫と、受粉をすることで種を増やそうとする花との関係は、それぞれの「利己的」なせめぎあいの間でうまれた見事な「共生」関係である。共生は目的ではなく、手段であり、結果である。ということを忘れてはならない。
==引用はじめ
共生とは、異なる理論のせめぎあいの中で生まれてくるものであり、そうであるからこそ、そこに従来のとは異なった新しい美も生まれてくるのかもしれないのだと思う。
==引用終わり
だから「共生」を目的とうたわれたとき、それ以前の目的まで視野に入れることが重要だと思うんだよね。けれど実はその部分が「資本主義的金儲け」だったりとかさ「政治的配慮」だったりとかさ、そういうものをダイレクトに言わないために「共生」っていうのは、ずるいなって思うんだよね。はっきり言えばいいのに「多様性会議」とかいってさ。結局、人口問題も高齢化問題もエネルギー問題も環境問題も、人間の利己的な問題にしかすぎないという前提は暗黙の了解だけど、だからといって「人間の」が「自国の」になって「俺の」になっちゃうのは困るなー。
レフェリー
面白い逸話。以前、「ネイチャー」という雑誌に、編集長が面白いと思ったら載せてしまうというコーナーがあった。科学的な裏付けがまだ何もなかったり、アイデアだけだったりとかしても、面白ければ編集長の独断と偏見で掲載していた。しかしそれはよくないということで、あるときから3人のレフェリーをつけることにした。3人ともが「これはいい」と思うものを載せるようにしたら、とたんにそのコーナーはつまらなくなってしまった、という話。
レフェリーがいることでレベルが上がる、という一方、レフェリーがいるおかげでアイデアがつぶされる、という部分もある、というお話。「先端」というのは常にむずかしいハードルがありますね、科学も藝術も。
この花は美しいと、誰が決めるか?
もうひとつ面白い逸話。フランスにいって、家に綺麗なお花が生けてあるのを見て「この花はきれいだ」というと「なぜだ?」と聞かれた。次の家でもその次の家でも同じことが続いたので「なぜ、なぜだと聞くのだ?」と聞いたところ、「さあ、なぜだかわからない」と相手も困ってしまったという。松本人志のコントみたいですね。日高氏はこのことをヨーロッパが科学を生んだ理由としてとらえた。つまり、ヨーロッパでは「この花は美しい」という断定は誰もできない、神様しかできない。「私はこの花が美しいと思う」ということはできても、「これは美しい」と断定する権利は誰にもない。だから、「自分はこう思う」というと、「いや、俺は思う」と、議論ができてくる。これが科学というものの起こりではないか、というのが日高氏の推察。
利己的な「死」
年を重ねると、見栄えや動きが、若いものよりも劣ってくるのは、動物として人間の遺伝子にプログラムされていること。いつまでも年寄りが若者と同じ土俵で戦えていたら、若い人が出る=人間が進化するすきがなくなってしまう。そして「老い」のプログラムと同じ理由で「死」も既にプログラミングされている。高齢化社会が叫ばれる中、アンチエイジングよりも、年寄りとして何をするべきか、を考えることに時間を割いた方がよく、死ぬときはさっさと死んで、次の世代にバトンを渡した方がよい、ということを、本人が亡くなられる1年前に編んでいるわけで、それなりにご自分の死期も自覚されていたのだろうと考えると、ちょっと鳥肌が立った。最後まで、動物行動学者としての真摯な発言を怠らなかった、素晴らしい人だ。
人間と動物はどう違うか?ということではなく、「人間はどういう動物か?」という視点で考えることの重要性をおっしゃっております。その違いは確かにでかい。
かなり前に読み終えていたのですがとても良い読書でした。また間をあけて読もうと思います。また、いきなり8巻から読んでもうたのですが、他の巻も気になりだしています。実は本屋さんんで偶然の出会いで衝動買いしたのですが、よい出会いでした。
というわけで、ながくなっちった。
「日高敏隆選集[ 人間はどういう動物か」日高敏隆
ランダムハウス講談社 2100円
2010年09月27日
「田中一村 新たなる全貌」千葉市美術館
以前に田中一村展を見たのは、高校生か、大学生のとき、セゾン美術館だと思っていたんだけど、ちがったのかな。だれか教えてくで。
で、どうしてもまた見たかった。きっと見たら絵が描きたくなるだろう、ということはわかっていた。というか、その気持ちを助長するためにも見に行かなくてはとどこかで思っていた。
気がついたら最終日。朝起きて、千葉までってどれくらいかかるのかなあと路線情報を調べてみたら、なんと今電車に乗れば、1時間半弱、10時すぎには着くやん!ということがわかって、いよいよやっぱり行かなくちゃ、という気持ちが高まり、今日休むよーという電話をボスにいれた。どうしてもやってもらわんと困る仕事があって、やっといてよね、と伝言するも、言われただけじゃわからんときた。むかつく!!
で、とりあえずオフィスにいって、打ち合わせて、引き換えに受けた仕事がこれまたおわらず、時計は午後2時に。あー、もう、途中で帰るぜ、と半分ぶちきれ、やっと許可をもらって、一路千葉へ。総武線のグリーン車で爆睡。16時すぎ千葉駅着。タクシーで千葉市美へ。
やっぱりこんなに無理してでも来てよかった。
8歳のときの絵から始まり、もうぐいぐい引き込まれまくり。一村の人生をたどりながら、一枚一枚の絵を見て行く。若干20代に描かれた、南天の絵と、「秋色」と題された秋の山の、イングリッシュガーデンのように、つくられていない自然なままの植物たちをきりとった絵。もう、展示のかなり序盤で既に大満足でごちそうさまって感じ。
どう書いているのか、筆の選び、筆の流れの方向、力の強弱、筆致のスピード、描かれた順番や、筆にしみこませた水分の量、その押さえ、抜き、ああ…、日本画って書いたことないけど、あー、絵描きたい。
配色がまた、うーん、この色にこの色、好きすぎる。そしてこの構図、抜け感。気持ちいい。
千葉時代まででかなりの時間を費やしてしまうが、それでも飛ばしてみようなんて思えないし、後ろの時間がなくなったとしても後悔はしないという確信があった。
案の定、最後は時間切れで、奄美の作品はあまりゆっくりみれなかった。人も多いし。まあ、奄美の作品は以前にも見たし(だいぶ前だし、何度見たっていいものはいいんだけど)ということもあってか、やっぱりそれ以前の部分が思いのほかよかったなあ。
あと、変わり種では、一村の撮った写真とか。あと所有している写真集の向かい側のページに写真のカモを見ながら鉛筆で描いてたりとか。写真から肖像画を描いているのとかもほーって感じだった。仏画はあまり関心しなかった。蓮は良かったけど。
やっぱり自分は大学の頃、かなり一村の影響うけてたんだなーと改めて思い出したりした。植物の絵を描いたり、木に絵を描いたり。
やっぱりもう一度描きたい。完成しなくてもいい、一生エスキスでもいいから。絵で食うとかとかでなく、絵を描ける環境を今の生活の中でどうにかつくれないものかと、前向きに考えたいなあ。
帰りに知人に会って、思いがけずアウェーの千葉駅周辺で飲んでかえって、またそれもよかった。
今日やりたいことは他にもあったのだけど、その中の1つしかできなかったけど、すげー大満足だった。
図録が売り切れていて増刷中ということで、予約してきた。売り切れです、と冷たくいいきらずに、予約受け付けてくれた千葉市美えらい。って、この後も巡回するんだもんね、鹿児島までは見に行けないけど、あー、でも行きたいなあ。でも無理だね。
けど最終日の最後の最後なんだから、30分くらい現場で内緒で延長してくれたら、もっとすてきだったのにな…。まあ、無理な話よね。
さて、この後、どう生きていこうかな。
で、どうしてもまた見たかった。きっと見たら絵が描きたくなるだろう、ということはわかっていた。というか、その気持ちを助長するためにも見に行かなくてはとどこかで思っていた。
気がついたら最終日。朝起きて、千葉までってどれくらいかかるのかなあと路線情報を調べてみたら、なんと今電車に乗れば、1時間半弱、10時すぎには着くやん!ということがわかって、いよいよやっぱり行かなくちゃ、という気持ちが高まり、今日休むよーという電話をボスにいれた。どうしてもやってもらわんと困る仕事があって、やっといてよね、と伝言するも、言われただけじゃわからんときた。むかつく!!
で、とりあえずオフィスにいって、打ち合わせて、引き換えに受けた仕事がこれまたおわらず、時計は午後2時に。あー、もう、途中で帰るぜ、と半分ぶちきれ、やっと許可をもらって、一路千葉へ。総武線のグリーン車で爆睡。16時すぎ千葉駅着。タクシーで千葉市美へ。
やっぱりこんなに無理してでも来てよかった。
8歳のときの絵から始まり、もうぐいぐい引き込まれまくり。一村の人生をたどりながら、一枚一枚の絵を見て行く。若干20代に描かれた、南天の絵と、「秋色」と題された秋の山の、イングリッシュガーデンのように、つくられていない自然なままの植物たちをきりとった絵。もう、展示のかなり序盤で既に大満足でごちそうさまって感じ。
どう書いているのか、筆の選び、筆の流れの方向、力の強弱、筆致のスピード、描かれた順番や、筆にしみこませた水分の量、その押さえ、抜き、ああ…、日本画って書いたことないけど、あー、絵描きたい。
配色がまた、うーん、この色にこの色、好きすぎる。そしてこの構図、抜け感。気持ちいい。
千葉時代まででかなりの時間を費やしてしまうが、それでも飛ばしてみようなんて思えないし、後ろの時間がなくなったとしても後悔はしないという確信があった。
案の定、最後は時間切れで、奄美の作品はあまりゆっくりみれなかった。人も多いし。まあ、奄美の作品は以前にも見たし(だいぶ前だし、何度見たっていいものはいいんだけど)ということもあってか、やっぱりそれ以前の部分が思いのほかよかったなあ。
あと、変わり種では、一村の撮った写真とか。あと所有している写真集の向かい側のページに写真のカモを見ながら鉛筆で描いてたりとか。写真から肖像画を描いているのとかもほーって感じだった。仏画はあまり関心しなかった。蓮は良かったけど。
やっぱり自分は大学の頃、かなり一村の影響うけてたんだなーと改めて思い出したりした。植物の絵を描いたり、木に絵を描いたり。
やっぱりもう一度描きたい。完成しなくてもいい、一生エスキスでもいいから。絵で食うとかとかでなく、絵を描ける環境を今の生活の中でどうにかつくれないものかと、前向きに考えたいなあ。
帰りに知人に会って、思いがけずアウェーの千葉駅周辺で飲んでかえって、またそれもよかった。
今日やりたいことは他にもあったのだけど、その中の1つしかできなかったけど、すげー大満足だった。
図録が売り切れていて増刷中ということで、予約してきた。売り切れです、と冷たくいいきらずに、予約受け付けてくれた千葉市美えらい。って、この後も巡回するんだもんね、鹿児島までは見に行けないけど、あー、でも行きたいなあ。でも無理だね。
けど最終日の最後の最後なんだから、30分くらい現場で内緒で延長してくれたら、もっとすてきだったのにな…。まあ、無理な話よね。
さて、この後、どう生きていこうかな。
2010年09月22日
どうせ死ぬにもかかわらず。
人はなんて悲しい生き物なのだろう、と改めて思うことが最近続いている。本人にとっての普通、本人の中での理想。それらと、社会や他人との間のディスコミュニケーション。それぞれの立場、それぞれの思惑。それぞれの言い訳。他人という個人(相手にとってはそれが自分)とのギャップ。深い溝。
人の痛みは他人にはわからない。人の考えの真意は、本質的には伝わりえない。正しいとか正しくないとかではなく。
越えられない壁、バカの壁。脳の癖。
と、ここまでは、昨日の心境。
昨日の夜、考えた。
人の痛みは他人にはわからない。それは思いやることはできても、共有はしえない。
しかし、少し違う言い方で言えば、それは共有はしえないが、思いやることはできる。
今日は、少しポジティブにものが考えられるようになった。
ネガティブな考えで時間を費やしてしまうより、ポジティブな姿勢の思考を強化する方に貴重な時間を割くべきだと考えた。
きのうの夜、強引に時間を取ってマッサージに行ったから、少しは疲れがとれたのかしら。
もともと、周囲や他人に左右されやすい性格で、他人に何か言われたりすると勝手にどーんと落ち込んで立ち直れなくなったりするのだから、そういうときに少しでも自己制御できるように、理論武装、はては実際に身に付いた武装をせなあかんのや。というようなことは、本質的にはわかってはいるんだけどねー、やっぱり見失ってしまうというか、悲しさに負けてしまうというか。人を思いやることについて考えるのはいいが、人に思いやってほしいなどと、甘えてはいけない。
そう、甘えは捨てる。悲しみに溺れてはいけない、それは甘えなのだから。もう、自分はういう風にしか生きられないものだと、割り切るしかない。
もっと強くならないといけない。それは、建前だけの強さだけではなく、実質的な強さ。結局それがないと、包容力やおおらかさや、全体を冷静に見て正しい判断をし、それらを制御していくことなんてできないのだから。
そしてその「正しさ」を、いつでもどんな状況でも確信できるくらいの強度で、公平に冷静に、自分の中に固めておくための作業は、まだまだいくらでもやらないといけないことはあるわけで。日々勉強。
いきおいでやりきる人もいるけど、自分はそれはどう考えてもできないわけで、だとしたら、違う方法で、勢いだけでやる人と同じかあるいはそれを越える実行力を持たなくてはならない。
死ぬために生きてる、どんなに努力しても、いつかは死んで、そしてなにもなくなる。そんなことはわかっている。だからといって、無理せず無難に、自分とその周辺のささやかな幸せだけを糧に生きていく生活ができるかというと、多分自分にはそういう生き方はできない。だからやるしかない。どうせ死ぬにもかかわらず。
そういう意味では、やはり、人は悲しい生き物なのかもしれない。
人の痛みは他人にはわからない。人の考えの真意は、本質的には伝わりえない。正しいとか正しくないとかではなく。
越えられない壁、バカの壁。脳の癖。
と、ここまでは、昨日の心境。
昨日の夜、考えた。
人の痛みは他人にはわからない。それは思いやることはできても、共有はしえない。
しかし、少し違う言い方で言えば、それは共有はしえないが、思いやることはできる。
今日は、少しポジティブにものが考えられるようになった。
ネガティブな考えで時間を費やしてしまうより、ポジティブな姿勢の思考を強化する方に貴重な時間を割くべきだと考えた。
きのうの夜、強引に時間を取ってマッサージに行ったから、少しは疲れがとれたのかしら。
もともと、周囲や他人に左右されやすい性格で、他人に何か言われたりすると勝手にどーんと落ち込んで立ち直れなくなったりするのだから、そういうときに少しでも自己制御できるように、理論武装、はては実際に身に付いた武装をせなあかんのや。というようなことは、本質的にはわかってはいるんだけどねー、やっぱり見失ってしまうというか、悲しさに負けてしまうというか。人を思いやることについて考えるのはいいが、人に思いやってほしいなどと、甘えてはいけない。
そう、甘えは捨てる。悲しみに溺れてはいけない、それは甘えなのだから。もう、自分はういう風にしか生きられないものだと、割り切るしかない。
もっと強くならないといけない。それは、建前だけの強さだけではなく、実質的な強さ。結局それがないと、包容力やおおらかさや、全体を冷静に見て正しい判断をし、それらを制御していくことなんてできないのだから。
そしてその「正しさ」を、いつでもどんな状況でも確信できるくらいの強度で、公平に冷静に、自分の中に固めておくための作業は、まだまだいくらでもやらないといけないことはあるわけで。日々勉強。
いきおいでやりきる人もいるけど、自分はそれはどう考えてもできないわけで、だとしたら、違う方法で、勢いだけでやる人と同じかあるいはそれを越える実行力を持たなくてはならない。
死ぬために生きてる、どんなに努力しても、いつかは死んで、そしてなにもなくなる。そんなことはわかっている。だからといって、無理せず無難に、自分とその周辺のささやかな幸せだけを糧に生きていく生活ができるかというと、多分自分にはそういう生き方はできない。だからやるしかない。どうせ死ぬにもかかわらず。
そういう意味では、やはり、人は悲しい生き物なのかもしれない。
2010年07月30日
この苦境にどう対処するか?
この仕事を進めたい。だが進みたくてもすすめない。どう論理的に考えても、今の状況ではこれを進めることは無理だ。ならば時が過ぎるのを待つ、ということなのだろうか? そしていつかは、そんなこともあったなと、過去の大雪の日の思い出のように、この苦虫を飲み込んだことさえもわすれることが、常套的展開なのだろうか?
表に出ないだれかの無数の苦労はいくらでも世の中に存在するだろう。本人さえ、忘れてしまうくらい、無数の無益な事態。それらを無視するがごとく社会は何事もなく動き、そのようなことさえも無言で飲み込みながら、時間という物理的な変容が過ぎ去っていく。ああ。
自分がとらわれているのは、全て自分自身がつくったトラップでしかない。
と、もっと身にしみなければならない。
いつも近くに停泊している「たま」という名前の船が、海に向かってゆっくり走行していった。
そこに停泊していたのは、そこにとどまることが目的ではなく、海へ出ていくためであったと、改めて気づく。
そしてまた、何事もなかったかのように、元の位置で波にゆれていた「たま」…。
ああ、うらやましい。本当に猫みたいな船だ。
ただ憂うべきは、自分も含め、皆から笑顔が消えていっている、という事実。
そしてそこに無力な自分が存在しているという事実をかみしめることの意味は果たして何なのか?という疑問。
表に出ないだれかの無数の苦労はいくらでも世の中に存在するだろう。本人さえ、忘れてしまうくらい、無数の無益な事態。それらを無視するがごとく社会は何事もなく動き、そのようなことさえも無言で飲み込みながら、時間という物理的な変容が過ぎ去っていく。ああ。
自分がとらわれているのは、全て自分自身がつくったトラップでしかない。
と、もっと身にしみなければならない。
いつも近くに停泊している「たま」という名前の船が、海に向かってゆっくり走行していった。
そこに停泊していたのは、そこにとどまることが目的ではなく、海へ出ていくためであったと、改めて気づく。
そしてまた、何事もなかったかのように、元の位置で波にゆれていた「たま」…。
ああ、うらやましい。本当に猫みたいな船だ。
ただ憂うべきは、自分も含め、皆から笑顔が消えていっている、という事実。
そしてそこに無力な自分が存在しているという事実をかみしめることの意味は果たして何なのか?という疑問。
2010年07月17日
今日のメモ
もう既に読み終わっている本があるというのに、文章を書く暇がない。それ以外に書かなきゃいけない文章が2本たまっている。でも今日も別の仕事があって、それはきっと書けない。
だが、まったく関係なく、今日考えたことを忘れんようにメモっておこうと思う。
まず、人に迷惑をかけて生きるなら死んだ方がましという考えと、自分に妥協して生きていくなら死んだ方がましという考えは、矛盾しない、ということ。私はそういう考えの上に生きている。
そして今は、その方法として、社会に片足を突っ込んで生きている、こということ。
上記のことについてのさらなるコメントを書いている暇は今はないので、とりあえず、以上。
昨日Amazonで買った島田雅彦の小説が今日届くので、楽しみなのだ! ずっとカートにはいったままだった。生きている作家の本は、中古で買わない。これも私のモットーです。もちろんCDも。(絶版で手に入らないものは別だけど)
これ、かなり正しい考え方だとあらためて思うんだけどなー。
取り急ぎ、今日は以上!
だが、まったく関係なく、今日考えたことを忘れんようにメモっておこうと思う。
まず、人に迷惑をかけて生きるなら死んだ方がましという考えと、自分に妥協して生きていくなら死んだ方がましという考えは、矛盾しない、ということ。私はそういう考えの上に生きている。
そして今は、その方法として、社会に片足を突っ込んで生きている、こということ。
上記のことについてのさらなるコメントを書いている暇は今はないので、とりあえず、以上。
昨日Amazonで買った島田雅彦の小説が今日届くので、楽しみなのだ! ずっとカートにはいったままだった。生きている作家の本は、中古で買わない。これも私のモットーです。もちろんCDも。(絶版で手に入らないものは別だけど)
これ、かなり正しい考え方だとあらためて思うんだけどなー。
取り急ぎ、今日は以上!
2010年06月28日
本屋と生物多様性年について
昨日はお休み。最近日曜がお休みできてうれしい。しかしこれも夏までかと思うと…。(忘れよう。)
で、近くの本屋に4時間もいたよ。いろんな本をちらちら読んで、楽しかったなー。そういえば中学・高校時代、よなよな出かけて、今はなき地元で一番大きな本屋に閉店までよくいたっけ。当時はそんなにお金を持っていた訳ではないから、いろいろみて結果文庫1冊しか買わなかったり、何も買わなかったりとか。でも別にすごくたくさん本を読むってわけではなく、しかもかなり偏った読書なのに、背表紙は知ってる、みたいな。あ、だから文学史得意だったのか…。
なんか、本屋に行きたくなる衝動って、ある。このように図書館のように本屋を活用する客は、本屋にとっては嫌な感じだろうけど、確実に購入しておりますから、そんなにわるい客ではないよね。
で、またまた読みかけの本がわんさかあるというのに、購入してしまいました。ただし、多分Amazonではないだろう、という本との出会い方。その本は動物行動学の分類のところにあったのですが、装丁がきれいだったので手に取ったんです。小説のような美しい装丁。で、ぱらっとめくると内容はわかりやすく面白そうだったので、書いた人は偉い学者さんのようですが全く私は知らない人なんだけど買ってしまいました。しかも全8巻の8巻目という、私にしては多分フツーだと、生真面目にも「1巻から読まにゃ」と思ってしまうところを、かなり思い切った大胆な買い方。
実は最近小説が読みたいなーと思っていて、最近ご無沙汰しておりました島田雅彦兄さんの本を探していたのですが、在庫されてなかったというのもあり…。
で、あと20P程で読み終わりますから、それについてはまた今度。
しかし、今年が「生物多様性年」だっていうことを、最近知りました。なんだー、だからその手の本が最近多いのか。3年前からプチ・オランダかぶれの私は「多様性」という言葉に弱く、んー世の中がやっと追いついてきたわ、と勝手に思っていたので、なんかがっかり…。ところで「世界◎◎年」って、いつ誰が決めるの??
で、近くの本屋に4時間もいたよ。いろんな本をちらちら読んで、楽しかったなー。そういえば中学・高校時代、よなよな出かけて、今はなき地元で一番大きな本屋に閉店までよくいたっけ。当時はそんなにお金を持っていた訳ではないから、いろいろみて結果文庫1冊しか買わなかったり、何も買わなかったりとか。でも別にすごくたくさん本を読むってわけではなく、しかもかなり偏った読書なのに、背表紙は知ってる、みたいな。あ、だから文学史得意だったのか…。
なんか、本屋に行きたくなる衝動って、ある。このように図書館のように本屋を活用する客は、本屋にとっては嫌な感じだろうけど、確実に購入しておりますから、そんなにわるい客ではないよね。
で、またまた読みかけの本がわんさかあるというのに、購入してしまいました。ただし、多分Amazonではないだろう、という本との出会い方。その本は動物行動学の分類のところにあったのですが、装丁がきれいだったので手に取ったんです。小説のような美しい装丁。で、ぱらっとめくると内容はわかりやすく面白そうだったので、書いた人は偉い学者さんのようですが全く私は知らない人なんだけど買ってしまいました。しかも全8巻の8巻目という、私にしては多分フツーだと、生真面目にも「1巻から読まにゃ」と思ってしまうところを、かなり思い切った大胆な買い方。
実は最近小説が読みたいなーと思っていて、最近ご無沙汰しておりました島田雅彦兄さんの本を探していたのですが、在庫されてなかったというのもあり…。
で、あと20P程で読み終わりますから、それについてはまた今度。
しかし、今年が「生物多様性年」だっていうことを、最近知りました。なんだー、だからその手の本が最近多いのか。3年前からプチ・オランダかぶれの私は「多様性」という言葉に弱く、んー世の中がやっと追いついてきたわ、と勝手に思っていたので、なんかがっかり…。ところで「世界◎◎年」って、いつ誰が決めるの??
2010年06月13日
「わたしの菜食生活」秋田昌美
今日はオフィスに来ているが、基本的には休み。ひとりでいるといろいろ考えてしまってだめなので、気をまぎらわすためにオフィスにきている。ただし仕事をする気はあまりないので仕事はしてない。で、なんとなく手に取ってしまったので、読んでしまった、最後まで。私の本ではないのだが。
うちのボスは秋田昌美さんが好きあるいは好きだったようだし、以前に仕事をともにしたこともあったようだが、本当に好きなのかどうかはわからない。若い頃は随分小難しげな理系男子だったようだから、もしかしたら本当に好きだったのかもしれんが、多分もとはクルト・シュビッターズが好きというところから、秋田さんのメルツバウにいきついたのだろう。で、この本も秋田さんの本だということで「買っといて」と言われて買った。しかしあの生活、あの性格、あの体格、菜食主義って柄じゃないし、本当には興味なんかあるわけじゃないんだろうな。多分本人がきちんと完読する可能性は少ないんだろうな。まあ、いいんだけど。
最初は東京の自宅でのチャボやアヒルとの生活の様子から始まる。なかなか優雅な生活よのう。と思っていると、そのうちに動物園や水族館で目撃したあるいは感じた動物虐待の話。そして菜食主義の段階や種類の話、80年代音楽シーンとアニマルライツの関係、アニマルライツでウィーガンであるご本人の特に旅先での食に関する逸話、最後は日本における生類憐れみの必然性を歴史的に語り、自身の主義を論理づける構成。
しかし、この主義の裏付けが完全であるようであればそうである程、ほんとかな?と穿ってしまうのは、なぜなのでしょうか。あげあしとりのようなことをしたいとは思わないのですが、やはりなるほどと思えば思う程、腑に落ちない部分が気になってくるのです。やはり全て完璧、なんてありえないのですよね、それはアーティストの理想と現実の真実かもしれない、とか…。
人の見方は多様です。何を軸としているのかということによって、同じものを見ても答えは変わるでしょう。でもそれでいいのだと思います。例えば他人にはおかしいと思うようなことも、本人にはそうしないとならない必然があって、たとえばそれを過剰に自己弁護するために他人を傷つけることで自己成立している人もいるかもしれない。あるいは、そのように他人を傷つけることはできないからといって、自分が抱えすぎてしまうおかげでおかしくなってしまう人もいるかもしれない。
歪(ひず)みがなく生きていくのは難しい、けれどなるべく歪みが少なくなるようにすることはできるだろう。しかし、自己の中の歪みの解消と社会(他人)と自分の間での歪みの解消が相反することもあるわけで、そんなに簡単にきっぱりとした答えがでるわけではない。それでも、あるべき答えを見いだすために、どうにか戦っていかなくてはいけない。
アートもウィーガンも、究極的には理想主義だと思います。しかし、それを実現させるのが極めて困難な現実世界で生きていかなければならない、というリアルな問題につきあたるとき、その問題を無視する、あるいはアナーキスティックに攻撃する、など、いろんな答えがあるのだと思います。そこに、またその人のパーソナリティなり、軸の別の部分が立ってくるのだと思います。
あるいはバカの壁なのかもしれません。
いずれにせよ、何かの形で完全ではないということを知りながら、こうであると系を閉じる作業をすることが、正しいのか正しくないのかは、未だわからない。ただ、そうすることで生まれる才能はあるだろう。けれどその確率とはどんなもんかというと低いと言わざるをえん。しかし確率論はそんなに重要なのか、というとそうとも言えないし…。
そして私のボスが読みもしないこの本を買ったことも、環境をテーマにした本を探していたという大義名分とは別なところに、彼なりのなにかのアサインがあったのだろうと。たとえば、そう、自分の中の理想主義に対するつじつま合わせのようなこととか…。
「わたしの菜食生活」秋田昌美
太田出版 1365円
うちのボスは秋田昌美さんが好きあるいは好きだったようだし、以前に仕事をともにしたこともあったようだが、本当に好きなのかどうかはわからない。若い頃は随分小難しげな理系男子だったようだから、もしかしたら本当に好きだったのかもしれんが、多分もとはクルト・シュビッターズが好きというところから、秋田さんのメルツバウにいきついたのだろう。で、この本も秋田さんの本だということで「買っといて」と言われて買った。しかしあの生活、あの性格、あの体格、菜食主義って柄じゃないし、本当には興味なんかあるわけじゃないんだろうな。多分本人がきちんと完読する可能性は少ないんだろうな。まあ、いいんだけど。
最初は東京の自宅でのチャボやアヒルとの生活の様子から始まる。なかなか優雅な生活よのう。と思っていると、そのうちに動物園や水族館で目撃したあるいは感じた動物虐待の話。そして菜食主義の段階や種類の話、80年代音楽シーンとアニマルライツの関係、アニマルライツでウィーガンであるご本人の特に旅先での食に関する逸話、最後は日本における生類憐れみの必然性を歴史的に語り、自身の主義を論理づける構成。
しかし、この主義の裏付けが完全であるようであればそうである程、ほんとかな?と穿ってしまうのは、なぜなのでしょうか。あげあしとりのようなことをしたいとは思わないのですが、やはりなるほどと思えば思う程、腑に落ちない部分が気になってくるのです。やはり全て完璧、なんてありえないのですよね、それはアーティストの理想と現実の真実かもしれない、とか…。
人の見方は多様です。何を軸としているのかということによって、同じものを見ても答えは変わるでしょう。でもそれでいいのだと思います。例えば他人にはおかしいと思うようなことも、本人にはそうしないとならない必然があって、たとえばそれを過剰に自己弁護するために他人を傷つけることで自己成立している人もいるかもしれない。あるいは、そのように他人を傷つけることはできないからといって、自分が抱えすぎてしまうおかげでおかしくなってしまう人もいるかもしれない。
歪(ひず)みがなく生きていくのは難しい、けれどなるべく歪みが少なくなるようにすることはできるだろう。しかし、自己の中の歪みの解消と社会(他人)と自分の間での歪みの解消が相反することもあるわけで、そんなに簡単にきっぱりとした答えがでるわけではない。それでも、あるべき答えを見いだすために、どうにか戦っていかなくてはいけない。
アートもウィーガンも、究極的には理想主義だと思います。しかし、それを実現させるのが極めて困難な現実世界で生きていかなければならない、というリアルな問題につきあたるとき、その問題を無視する、あるいはアナーキスティックに攻撃する、など、いろんな答えがあるのだと思います。そこに、またその人のパーソナリティなり、軸の別の部分が立ってくるのだと思います。
あるいはバカの壁なのかもしれません。
いずれにせよ、何かの形で完全ではないということを知りながら、こうであると系を閉じる作業をすることが、正しいのか正しくないのかは、未だわからない。ただ、そうすることで生まれる才能はあるだろう。けれどその確率とはどんなもんかというと低いと言わざるをえん。しかし確率論はそんなに重要なのか、というとそうとも言えないし…。
そして私のボスが読みもしないこの本を買ったことも、環境をテーマにした本を探していたという大義名分とは別なところに、彼なりのなにかのアサインがあったのだろうと。たとえば、そう、自分の中の理想主義に対するつじつま合わせのようなこととか…。
「わたしの菜食生活」秋田昌美
太田出版 1365円

