2009年11月07日

「日本の伝統」その3

やっと来ました、最終回。この「中世の庭」の章でこの本の半分を使っているのですから、太郎さんの力のいれようが伺えます。こころなしか、視点が近眼になっている気がしないでもないですが…。さて、太郎さんはなぜここで庭を取り上げているかというと、庭が日本的伝統のサンプルとして相応しいものであると考えられているからのようです。しかし誰の目にもいわゆる典型的日本庭園からは程遠く、異種異様に感じられる銀閣寺の銀沙灘という白砂の山のことをかなり書かれています。ということは、「庭の典型」が「日本的伝統のサンプルの典型」、ということではないようです。
「銀沙灘」について、太郎さんはその異様さを認めてはいますが、それをひとつの大きな彫刻ととらえたときに、周囲の自然環境との立体的な融和に注目しています。これは竜安寺の石庭など、典型的日本庭園が平面的で1方向的な配置であることと相反して優れていると評価しています。また自然は遠方の木々等ですから、自分が移動したときの目前の銀沙灘の刻々と変化して行くフォルムのダイナミズムと遠方でゆっくりと流れて行く木々の平面的なゆったりとした変位とのコントラストを楽しむための装置としての評価のような部分もあります。まさにこれはインスタレーション。視点を変えるための装置。太郎さんの評価は明らかに現代美術的評価といえます。また、庭を囲む塀についても、その向こうの借景の自然と手前の人工的な庭との境界を切るための要素として、非常に重用視しています。

以下引用
ーーーー
もし素朴に自然を観賞するなら、こういう区切りはつけないはずです。たとい塀が必要であっても、造庭の工夫によってたやすくそれを隠すこともできるし…(中略)。だが、そうしたら、まえにもお話したように、人工と自然がひらたくつながってしまって、芸術的な、そして空間的な魅力はうしなってしまいます。
一線に区切ったーーとたんに自然は自然として、人工は人工として、実は実として、虚は虚として、二つの対立極は相互に高度な緊張をおびてはたらきかけ、そのあいだに火花をちらすのです。
これは今日の芸術のもっとも新しい課題にそのまま通じる、おどろくべき弁証法的技術であると言わなければなりません。
ーーーー
引用終わり

この後、鎖国という物理的閉鎖も含め、物理的にも概念的にも狭い日本の重箱文化を指摘し、これらダイナミックな庭とは違って箱庭的、予定調和的波風をたてないようなあまたある他の「庭」について批判するとともに、概念的な「禅」についてもこの時代の社会には本質的に根付くことが(あるいはもっとしぶとく追求することが)できていないと批判しています。

以下引用
ーーーー
本質的な対決のない不毛な世界のなかで、消極的に身をまもる順応性が、日本文化の一つ性格になっているのは、けっして嬉しいことではありません。
ーーーー
引用終わり

ようするになんとなくうまくとりまとめ、反自然なのかなんなのか、態度がはっきりしていないことにいらだっているようです。まあ、そういうものは「表現」とは言いがたいでしょう。太郎さんは強い激しさに惹かれ、また自分も強く激しくあろうとする。それは悪くはないけれど、仮に縄文の血をひいた「日本人」であろうとも、さまざまな状況のなかでは優柔不断になってしまうこともあるかもしれない。まあしかしそれは「芸術表現」として評価に値しない、というだけのことかもしれない。「調和」というものは安易な自己犠牲の上に生まれるものでなく、お互いがせめぎあうそのぎりぎりの攻防のなかにしか、生まれ得ないものだ、ということなのでしょうか。だとしたら、やっぱ大変だなー、生きてくのって…。
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2009年10月20日

「日本の伝統」その2

岡本太郎は、「光琳」の最後の方で、当時の封建社会では「芸術家」をそう高く評価しておらず、芸人や職人にすぎなかったと言っています。また、ヨーロッパでも「芸術」や「芸術家」という観念をもちはじめたのは、19世紀以降、日本ではその思想が明治・大正時代にやっと輸入された、と。これはいわゆる「近代的自我」の萌芽の時期とシンクロするのではないでしょうか。で、彼らはどうやって生計を立てていたかというと、やはりパトロンがいて、時にはパトロンの犬にならざるをえない。そして、あらゆる時代において真の芸術家がすくないように正しい鑑賞者も決して多くなく、かならずしも芸術の理解者とはいえず、芸術を堕落させる場合も多いと言っている。光琳もそのようなおもねるような作品が少なくないといいつつ、なにしろ太郎さんは「燕子花」と「紅白梅」をものすごく評価しているので、それといくつかの佳作がなければ、光琳も普通の絵描きだっただろうといっています。
で、その2作をどう評価しているかというところが、とても勉強になります。

以下引用
ーーーーー
 まえに、燕子花と紅白梅の図について私は、画面の梅には梅のなにものも感じられず、川は流れていないと言いましたが、たんに造形の面だけでいえば、それはすでに素材がたんなる手段となり、それ自体としての意味を解消しているということです。なるほどこれらの作品は大いに装飾的です。しかしその本質にはその反対のものもふくんでいる。ここにじつは芸術のただならぬ問題があるのです。
 装飾性と芸術の関係は大へん複雑ですが、芸術が本質においてはたんなる装飾の反対物であることは確かでしょう。真の絵画は装飾性をおびることはできますが、けっして純粋の装飾ではなく、それを越えたものでなければならない。
ーーーーー
引用終わり

川がリアルであるかそうでないか、あるいは単に美しいかそうでないか、ということは問題ではなく、その向こうに表れるてくるものが真の芸術性であり、その絵を目の当たりにしたときに打たれる感情を「デモーニッシュな緊迫感」と形容している。
美術や芸術のもつ力を信じている人は、皆一度は経験があることかと思います。私がこれまでに一番ショックをうけた作品は、やはり高校生のときにセゾン美術館でみたエゴン・シーレの「死と乙女」です。悪夢にひきこまれるような感覚、鳥肌。意味とか形態とかでなく、強烈な何かが確実に私をその作品の前から動けなくさせた。人の発する気迫を越えた、もっと強い何か。あれほど強い経験をしたことはあまりありません。これは図版や写真では伝わらない、確かにそのものに触れないと、そのような経験を得ることはなかったことだと思います。しかし、幸か不幸か出会ってしまった…。

以下引用
ーーーーー
 いづれにせよ、デモーニッシュな緊迫感こそ芸術の内容であり、装飾の目的を越えて、それは不快でさえある。しかしそれがまた快以上の戦慄的な快なのです。複雑なアンビヴァランスです。ここにたくましい芸術の意味があるのです。
 どんな凡人でも、生涯のうちに一度や二度はかならず、おのれ本来の姿を真正面からうちながめてドキッとすることがあるはずです。そういうことなしに生きがいは考えられません。このような魂の高揚期にこそ、作家はおのれと対決し、それを乗りこえておのれ以上のものとなる。言いかえれば、ほんとうにおのれじしんになりきるのです。これが非情の場です。
ーーーーー
引用終わり

この部分、ちょっとわかりにくかったんだけど、シーレのことを思い浮かべての今の解釈は、自分を引きつけたものは少なからず自分とシンクロする要素があったのだということ。で、それは何か、固有解なのか一般解なのかわからないけど、「孤独」に対する恐れと覚悟のようなものなのかな、と。誰も悪くはないけれど、現実に起こりうること、悲しいディスコミュニケーション。それは作品の意味を知った現在からのいらぬ解釈かもしれないけれど…。
しかし、この気迫をここに実現させたのはやはり「技術」や「型」なのでしょうか? いや、やはりそれなしにはあり得ないが、それだけでもあり得ない。一朝一夕には、たどりつかない領域。だから今を耐えしのぐことができるのかと。
まだまだ道半ばの未熟者であればあるほど、それでもなお生きろ、ということか。

「非情」の場、というものについて、もう少し考えたい。それで社会に生きて行くことはできるのか?

ああ、庭までたどりつかなかった。その3に続く…

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2009年10月17日

創造行為におけるメモ

日本の伝統、書き終えていませんが、わりこみでメモを記します。

創造行為とは、好きなことを好きなようにやること、ではない。
それも含むけど、それでは充分ではないのだ。子どものように何かに遠慮したり気を取られたりすることなく泣き叫んだりすることは、本物の魂の叫びには違いないが、私たちが扱う表現活動や創造行為、というものとはまた違ったものだ。そういう要素は必要条件のひとつかも知れないけど、十分条件ではない。
だから子どもの絵や、アウトサイダーアートは良い絵もあるかもしれないけど、あまり興味が無い。

創造性を促す、とはどういったことだろうか?
それには段階があるだろう。

1。現代の社会につかりすぎて凝り固まってしまった思考回路に創造の喜びを回帰させること。
2。創造の源があるという前提で、ではそれをどう実社会の中でリアライズしていくか、という方法論的な補完。(精神的な事、あるいは金銭的な事や他人との関係等物理的な事など、様々なハードルがある)
3。自己表現以外の「表現」に、固有の創造力を発揮してくための、技術の習得とそのマッチング。

創造都市の最終的到達点は、究極的には3番ですが、それを育てるには1も2もやらなくてはいけない。でも、1と2をやるのは何のためかというと、最終的には3にいく、という前提でのことでしょう。
しかし、表現と通常のお勉強の違うところは、1ができたら2、2ができたら3というアプリオリなものではないということです。

正当なアーティストというのは、2をきわめている人であって、3でなくてはいけない、という訳ではない。つまりアーティスト全員=3になる、というのとも違う。
だからといって、3が正当なアーティストではない、というわけではない。

アーティスト、という職業はかなり近現代的職業であり、そのあり方のひな形というのもないわけで…。しかも他力本願と自力本願の度合いがどうとかいうのは、アーティストごとに考え方も違うし。(クリストとかは極端に自力本願だけど、やっぱりドローイングとか作品の端きれとかを売って他人のお金を獲得しているわけで、その行為は自力なのか他力なのか??)

実際、私自身が創造行為と言うときには何を指しているのかというと、2のときと3のときとの使い分けがあると思うんだけど。

経済の話はこのことにどう関係するのか?
また、多様性の優位性はこのことにどう関係するのか?
また、人間そのものにおける創造性の根源、アフォーダンスはどう関係してくるのか?
あるいは、伝統・型・ある特異な技術の習得と、表現の中でそれを方法論の一部として発揮することの関係はどうだろう? ただ単にArmとTechの切磋琢磨の一過程にすぎないのか?ただしそのことで比喩としての意味を込めることもできるだろう。あるいは無に帰することもできるかもしれない。「個」ではなくシンプルな「人間」としての様相を際立たせる、あるいはその逆か?
認識論?意識と無意識?
自分の中で問題は、大学頃からあまり変わっていないようだ。
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2009年10月12日

「日本の伝統」岡本太郎

読んでから随分たってます。読んだのは8月末。この忙しい時期に本が読めたのは、熱が出て丸2日寝込んでいたから。ただし珍しく熱が37度代でおさまってくれていたので、熱くてだるいけど読書くらいできそうだ、と。以前に一度読んだ事があったけど、文庫が出ていたのを購入してずっと放置だったので、このチャンスに再読してみた。

「伝統」を過去のもの、とするのはその価値を殺してしまうようなもの。現代の視線で伝統をとらえなおしたときに、「伝統」の意義が生まれ、今日を照射するそんざいとなりえる。と。
そのような思想を追体験することが、この間、自分の実生活やいくつか見た表現の中にあったのは偶然ではなかろう。(ほんと、今流行ってんのかな、と思うくらい…。)

この本は「伝統とは創造である」という太郎の伝統論の大枠、「縄文土器」「光琳」「中世の庭」という3つの各論を通した理論の裏付け、そしてこの文庫版に新しくおさめられた「伝統論の新しい展開」というモノローグからなる。
「縄文土器」は、岡本太郎がメディアで「藝術は爆発だ!」と目を丸くしてパフォーマンスし変人ぶりをアピールする一方で、日本における社会学上、重要な偉業を残した論文だ。すなわち、日本の歴史に「縄文時代」を定着させたのだ。実際私よりひとまわり上の世代の人たちの歴史の教科書に「縄文時代」はなくて、「弥生時代」から始まっているというから、びっくり。

まず、帯のことばがすごい。
「『自分が法隆寺になればよい』 TARO 」
って…あなたはなれるかもしれんけど、ふつーのひとはなかなかなれまへんがな。

さて、気を取り直し「縄文土器」の最後の方。以下引用。
ーーー
 今日、こののっぴきならない現実のなかで、芸術家意識にこだわるために、ほとんどすべての芸術家たちが、どんなにとまどい、それをひたかくし、みずからの非力をごまかしてうろうろしていることでしょうか。みにくい姿です。
 この不可視であり、だがなまなましい現実的な事実に正面からぶつかり、その意味をみきわめ、おのれじしんを引きさかないかぎり、現実にたいして、また芸術にも決定的に無力です。
 だが、この交渉をまた逆に神秘化したり観念化してはなりません。それこそ形式論に堕落することであり、頽廃です。
(中略)
 …土器をみればわかるでしょう。はげしくても無理が無い。あのような美しさに、見るものを意識した卑俗さがみじんもない。つまりわれわれ現代人の考えているような目的だとか意味なんて、まったく汲み取れないほどたくましく、平気でやってのけているのです。いわば無意味の意味といえるでしょう。
 このように平気で、明朗で、くったくのないありかたを、われわれは生きる方法、そして芸術の内容としてつかみとるべきです。
ーーー
引用終わり。

芸術の日常性と、アーティストの自律性、創造の喜びに対する羨望と憧憬。その視線は芸術家そのものの視線だが、同時に鬱屈した社会を打開していく方法としての縄文的朗らかさを推奨する視線は、社会に挑む一生活者としての真の叫びともいえる。 
ブルーノ・タウトら西洋人によって定義づけられた「日本」の静的イメージは、神秘化された、つくられたものであり、本当の「日本」あるいは「日本人像」は、「伝統」を自分たち自身で読み解くことで、むしろ縄文という真実を太郎自身が「生み出した」。かなり「日本の伝統」論を実践している、太郎はやっぱすごい、と思う。

しかし、芸術を神秘化すべきではない、という発言はこの時代にしては、さすがインテリ、冷静な意見。もしかして、あのパフォーマンスは、逆に神秘化「されない」ための、大衆メディア向けパフォーマンスだったのか??
でも以前に、それまで鋭気なくふつーに歩いてた太郎さんが、カメラが向いた瞬間に「爆発だ!」のときのように目をひんむいて、カメラにガン飛ばしてたのを見た、とあるお方に聞いた事がある。それって、やってること、むじゅんしてんじゃん、たろさん!!

長くなりそうなので、その2に続く。


「日本の伝統」岡本太郎
 光文社 知恵の森文庫 660円
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2009年10月03日

自分を大切に

県警本部の敷地内に、向かいの道路に向けて大きな電光掲示板がある。LEDで様々な道徳的メッセージを、毎日イラスト入りで流している。前を通るたびに、これって不思議だなー、と思って見ている。先日目にしたのは、でかでかと「自分を大切に」って文字…。
松本大洋の漫画の、町の中の貼り紙みたいでシュールだなあとおもった。真意は覚せい剤撲滅を推進するメッセージのようだけど、こんなことわざわざ言わんといけないのか!世も末だ、と一瞬思う。でもよく考えてみると、自分も含めて自虐的な人間は普通に多い。覚せい剤をするなんて事は別にしても、人は思考回路として絶対的「正」を必ずしも遵守するとは限らない。正誤は理解できても、その通りに動くかどうかは別というひねくれた輩。そういう意味では「自分を大切に」しない人間も多い。
しかし、警察の電光掲示板で「自分を大切に」というメッセージを見て、「大切にしなきゃ…。」と影響を受ける人、考えを改める人っているのかな?と思うと、そんなアホな人、逆にいないと思うんだよね。最初から「大切にしよう」と思っている人以外が対象なわけでしょ、その対象者に対する効果ってほぼないのではないか?
その表現は形式的というか、効果があろうがなかろうが「やっている」ということが既成事実として必要なだけなんじゃないかと。まさに税金の無駄遣い。でも、その費用対効果なんて指摘する人は誰もいない、暗黙の了解。
それで思ったのは、一般社会って、あまりにも無責任に「表現」をするものなのだ、そしてそれを容認するものなのだ、ということ。マスメディアとかももちろんそうだけど。
だとしたら「表現」に対する「誠実さ」を持ち合わせているのは唯一「アーティスト」しかいないと思う訳。(というか、最初に思ったのはアーティストは、もっと無責任に表現してもいいのでは?ということだったけど、それは「あいつがわるいから、自分も悪くてよい」という腐っていく構造の思考だったので、やめました…。)
とにかく「自分を大切に」を、もっと別の方法で表現できたら、日本の警察も捨てたもんじゃなくなるってこと。そのような日がいつ来ることやら…。
これぞまさに「クリエイティブシティ」ってか。
posted by tamaph at 15:43| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月15日

合意形成

この数年間考えて来たのは、『合意形成』のあるべきプロセスについて、だった気がする。

だが、意識的な合意形成というプロセスは本当に必要なのか?
それはライアル・ワトソンの「生命潮流」の101匹目のサルよろしく、無意識的に取捨選択され、デジタル変化していくならば、それにこしたことはない。それは合意形成というよりも、自然な進化のプロセスだ。

つまり、「合意形成」しようだなんて、体のいい思いあがりなのではないかという気がしてきた。

すばらしいプロジェクトや仕事、まさに進化のきざしとよべるような出来事は、充分な合意形成の上に成されているかというと、必ずしも、というかほとんどそうではない。作家の仕事もしかり、だ。
ただし、他人の土地やお金を使ったパブリックアートやプロジェクトは、ある程度の合意形成が無ければ、事を起こすことすらできない。だがその説明責任は最低限ラインのことで、たとえば安全性やコストなどの対策でしかなく、できあがったものの説得力を代弁するようなものではない。
人が本当に納得し、合意が形成されるのは、具体的になされた「もの」や「こと」からでしかない。もちろん、具体的に成されれば何でも合意されるかといえばそうでなく、猛烈な反感を買う場合もあるが、既成事実という言葉通り、なされたものがいつのまにか既存となって基礎となってしまう方が多い。

合意なんてしようとするから、よけいな心配や思いが浮上して、逆に動けなくなる。筆はとまり、思考もとまる。けど、ある意味でそれが自分の仕事だと思わざるを得ない部分もある。組織を持続しなくてはいけないからだ。要するに最低限の説明責任を誰かが果たさなくてはならない。あたしは人柱かいな…。
突っ走るタイプにしか物事を牽引していけないけど、それは常にそれを制御するものとセットだ、というのだ。
私はその鬱屈の中にずっといる気がする。走り出したいのに走り出してはいけない。けれど他人が走り出すためにかまをかけ、走り出す手助けをし続ける。だがいざ、自分が走り出そうというときに、やはり走り出せない自分…。

いや、論理的には既にそんなことはわかっていた。そんなことがわかっていたからこんなことになっているのかもしれない。つまり、バランスをとるための捨て石のような立場をとらざらんとする自分。
そんな風に言ってしまうと、これまで一緒に仕事をしてきた人たちからは、私は信用できない存在として映るだろう。






posted by tamaph at 01:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月02日

ディレクションにおけるメモ

いま、すごく革新的なことを2つも思いついたのに、Macがサイトアップデートしてて、思考が定着できないうちに消えた…。

うー、くやしいな。なんとか思い出してみよう…。
それがこのBlogの本来の役割だった。
ひとつは、ディレクションする立場と、される立場について。
もうひとつは…、うー、わからなくなったー!!くやしー。

とりあえずひとつめからひもといてみよう。
ディレクションする立場とは、ディレクター。される立場とは、作家なりアーティストだわな。で、本質的に、というか日常生活においてはその立場って逆転してると思う訳。
というのは、ディレクションされる立場である作家は、日常的に自己あるいは自己の行為を規定して成立している立場だと思う訳。「表現」って、そういう締念をともなうものだとおもうの。で、ディレクションする側は、常に自己の思考における規定だけで答えは出せなくて、いろいろなバランスをふまえて答えをださなくては「いけない立場」だと思うの。もちろんその結果、自己規定を押し通すというのもありうるけど、とにかくそうするとしても、ひととおり、まわりをながめて、まわりの状況を咀嚼しつつ、でも現状でなにがベストかの答えを、勇気を持って出さなくてはいけん。それが仕事。もちろん作家だってそうだけどさ、それが一見アンバランスだとしても作家なら許されるわけ。だって最初から記名は「個人」だから。背負わなくていいわけ、よけいなものを。でもグループみたいにアノニマスな作家っていうのもいて、これ、実はくさいね…。(すんません…私らのこと?)というか、やっぱ、誰の金で動いてるかってことなのかな??
んんーー。
今思ったのは思考の先の定点をどこに置くかということが、両者に共通する重要性だと思うけど、作家はそれは結果的によきところにおちれば良いのであって第一義的にそうでなくてはいけないということではない。(ほんと?) けど、ディレクションする人はそこに対する最低限のアベレージは確保しないといけないんだと思うんだ。ある意味、保証しますよ、という保険屋さんみたいなもんだからね。でも、やおやだって全ての八百屋が野菜のことを知り尽くしているわけでなく、いい八百屋も悪い八百屋もある。それを見抜くのは消費者次第なのね。ということはさ、美術とか芸術を、信じるに値するものだと、手放しには言えなくなる…。

ちがう、やっぱ、視点の先の問題だ。それがどこに向いてるか? それって、実は同じと思っている人も、違ったりするんだろうな。知ることが怖い。あー、でも多様性の尊厳の立場からは、それでいいはずだし…。うおー、自分がなんなのか、わからなくなる!!

ひとつめの思考も有らぬ展開をし、ふたつめの思考に至ってはとうとう思い出せなかった…。
いつかまた、出会えるかな??
というかあたしは寝れるのか、このもんもんとした思考の状況の下で!!


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2009年07月30日

twitするわたし

ほんと、世の中すごいなーと思います。
twitterはじめました。
http://twitter.com/tamaphe

どんなもんかとりあえずやってみようというのと、自己学習装置として組み込んでみようと思い立ちました。
英語で書く!って決めてるんで、tamaphの後にeつけてみました。はは。

情報って、軽!
でもこの軽さは、ある意味、現実に近いかも。
偏りの善し悪しは、自分が選択するしかないのかもね。
だいたいtwitterは「さえずり」と訳されるけど、「twit」をyahoo辞書で調べたら「ばか/まぬけ/あざけり/愚弄」って、こっぴどいね…。
でもBlogもmixiもtwitterもさ、あたしが死んだとき、どうしてくれるんだろね。
有名人のサイトなら、すぐアクセス過多で炎上するかもしれんけど、人知れずしぬひとのサイトとか、それこそつぶやきってどうなるの? こわー。
宇宙だね…。自由と孤独は背中合わせなり。




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2009年07月20日

「時」を越えるんだ

時が解決することはあるけれど、時が経っただけじゃ解決されないことがある。問題はどう時を過ごすか? だが、それを考えているうちに時は経ってしまうのだった…

…それじゃいかーん!

はっきりいってふつうの人より、時間がない。だからなんなのさ。時間はつくるもんだ。そしてそれを有意義に費やせるかどうかも自分次第だ。仕事や他人のせいになんてしないもん。自分ががんばればなんでもできるんだー。
と、信じよう。

優先順位をかんがえる。自分がやりやすい順番でやる。そうすると重要なのにおっくうなことが後回しになる。それを勢いでやる!とある日決心する。決心したら、ゆるぎなくのめりこむ。(得意でしょ、自分。)そして終わりまでやる。途中でやめない。
最近はそんなかんじでさくさく生きてます。
しかし、なぜか太りつつある私…。
そーなのです。テンションあげるために、おいしいものたべよー、とかいう方法論が最近ございまして…。いいじゃん、さくさくやるんだからさ、という自分に対する甘えというか…。
体重が55キロを越えると、鳥は飛べなくなるのだそうです。私も飛べなくならないように、がんばりましょう。
飛ぶんだ!!
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2009年07月03日

池田亮司「+/−」 東京都現代美術館

眠れない…。仕事上の雑事というか用事がたくさんあって、それなりにこなしているつもりだけど、あれもやりたいが、これもしなきゃで、結局後回しになっているものが、本当は目前の「仕事」にとってではなく「自分自身」にとって重要なことだってうすうすわかっているんですけどね。
けどどんな些細なことでも、誰にでもできることでも、結局誰かがやらないと、事物は進まないという、濁流に押し流されるような論理で、みごとにいろんなレベルのことを同時にやっています。とほほ。まあ、そういうときもあるさ。というか、そういうときばっかりだから、つらいんだけどね。もっと脳にブランクをつくりたいと思う今日この頃。
さて、せっかく眠れないから、久しぶりに見ることのできた展覧会について書いておこうと思った次第。
先日、池田亮司「+/−」を、東京都現代美術館に見に行きました。展覧会を見に行くなんて超久しぶりなのですよー。うれぴー。San JoseのISEAで、古い劇場を再興させたCalifornia Theaterというシアターで、datamaticsを大画面で見て、それなりに楽しんだ覚えがあったのと、チラシの写真も良かったので行きたいなーと思っていたら、あっというまに最終日。で、意を決し、小雨降るなか、行ってまいりました。
いろんな理論とかあるのかもしれませんが、今の私には清涼飲料系。思考なしで、ぼーっとその空間にたたずんでいたい感じでした。最終日の閉館1時間前ということもあり、たくさんの人が暗闇のなかの大画面の前で床に直座りして、映像のタームごとに人が流れていく様は潮の満ち引きのごとく、まるで作品の一部のようで、感じ悪くなかった。みんな自由な感じで見ていて、その様は作品とリンクするものがあった。きっとすいてるときにきたら、10年くらい前に水戸芸術館で堪能したジェニーホルツァーなみのリラクゼーションだったかも、と思いつつも、この人の群れは私の中で、要素として実は重要だったと今にして思う。
そしてまたしても「ミニマル」。その包容力に包まれる私なのでした。久々に濃厚なブランキー…。
帰り際、カタログ買って帰ろーと思ったら売り切れ。なんだよナディフー、多めに仕入れといてほしかったなー。見積もり浅いがな…。
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2009年06月14日

「スピノザの世界 神または自然」上野 修

超良書!
スピノザ入門がこの本でほんと良かった!
たぶん、スピノザが書いた本そのものをいきなり読んでいたら、挫折していた。あるいはありがたい言葉だと思っても、ここまで入れ込むことができなかったと思う。この難解な理論をわかりやすくていねいに、ときにユーモアを交えながら説明してくれているすばらしい入門書。
しかし、「神または自然」ってスピノザの信念ではあるが、こうして本のタイトルになるとふつーな感じで、とっても損だと思う!

でもね、次から次へと奇想天外な論理展開の連打は、気にいった部分をドックイヤーしようとすると、全てのページを折り曲げにゃいけない状態で、もう折るのはやめようと決めても、またどうしてもページの下を折り曲げたくなってしまうという、こんな感覚はほんと始めて。(ちなみに私はページ下を小さく折る。上を折るのは次に読むとき先入観になるので目立たないようにしとくのです。)
しかもどんどん読めてしまう。私は読了しないとその本について書かないことに決めている。(だって書くために終わらせる、のさ)でも、フライングしてちょこっと紹介してしまったのはそのくらい衝撃だったから。しかもそこから今回読了するまで時間が経っているのは読み進まなかったのではなく、単に読む暇がなかっただけのことで、トータルではほんとにあっという間、夢のようです! 今でも、夢うつつ…?

これもう、まるごと教科書。何回も読みます、参りました。
現在愛読書No.1! でもレンタル予約入ってるので、明日から貸し出します。しばらくさよーなら。なので詳しく内容について述べるはまたあらためて。とにかく、スピノザありがとう。そして上野先生、ありがとう、です!

「スピノザの世界 神または自然」上野 修
 講談社現代新書 720円

 講談社さんも、いい本だしますねー!
「エチカ」も「知性改善論」も入手済みだけど、しばらくはこの本でお腹いっぱい!!


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2009年05月11日

目から鱗とはこのことか?

きょうはすこぶる幸せだ。
今日は原口典之展とスピノザ読書三昧だった。

思考はミニマルであるべきだ。
世の中は広くて多様なんだから、思考はミニマルにしておかないと、つかみきれないし、多様さを享受できなくなる。
ものをみる最低限の「型」というか。あるいは視点そのもの。
以前は具体的なものを志向していた。比喩表現とか。意味とか象徴とか考えていたのはそのせいだ。

ところで原口典之展「社会と物質」。本日じっくり見ましたが、すばらしい、全て。やっぱりすきのない思考っていいね。表現されたものを見ているだけで、その配慮というか気高さが感じられるよ。しかもそれは単品の完成度もさることながら、全体の空間の扱いがすばらしい。そういう考えられた空間に身を委ねているときってほんと、幸せだよ。それは安心感とかいうような生易しいことでは全くなく、なんと表現していいかわからないんだけど、すごいんだよ!豊かなんだ!
こういうたぐいの空間の豊かさは、私としてはロスのゲティセンター以来の衝撃。
この展覧会は私の思考における歴史に残る展覧会だよ。
掛け値なしで超おすすめ。
ぜったい見るべし。しかもこの空間で!!

今日がこんな日になるなんて思いもよらなかった。
明日も晴れるといいな。
今日は久しぶりに安らかに眠れそうだよ。
スピノザの続きを抱えながらね。

そして、上記のこと、いつかもう少しきちんと文章化して、消化していきたいと思います。

当面の目標はあらゆる意味で「余裕」。
明日もがんばろー。

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2009年05月10日

虚構について

スピノザってすごい。
「真実の思考」と「真理」は別のものだと。
確かにそうだけど…。すごいねこの言い切り。

それが人のバカさなのかな。
では人であるうちは、どうしようもないというか、人であることを辞めるしかないじゃん。

そんなにたいしたこと、求めてないよ。ただ生きるために精一杯もがいてきた。
これがあたしの限界。認めるしかない。

方向性を見失った。
けどきっとたいしたことじゃない。あたし以外の人間にとってはね。
安部公房だ。労働は最大の忘却。
そね、でも大事なことも忘れちゃったのかもね。本末転倒。

「私が虚構するとすれば、それは不可能性も必然性もまったく見えていないあいだだけである。実際、不可能性・必然性がもし理解されていたら、私は何事も虚構できなかっただろう。」
スピノザ「知性改善論」

過去について虚構はありえない。自分はその選択肢以外選びようがなかった。それを悔やんでもどうしようもない。そうしかあり得ない。それ以外は全て虚構。だから今まで出会った人もそうとしかありえなく、離れていった人もまた、そうとしかあり得ない。

虚構を真実に変えるとしたらそれは未来という方向性しかありえない。
でもね、もういい加減つかれちゃった。
見つめるのも、見つめないのも、どっちもね。

きのう仕事中に急いでいて木の箱を膝蹴りしてしまった。ひざがおかしい。さっき気づいたら腫れてた。
けどどうでもいい。そんなこと。ばちがあたったんだ。この痛みは虚構でなく真実。
安堵したい。


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2009年05月04日

「生まれいずる悩み」

「生まれいずる悩み」のなかで有島武郎が書いたことを思い出している。画家を志す田舎の漁師。「画家」になるか「漁師」になるか。しかし、悩みに悩んだ末に出す答えと、崖の上から小石を投げてその表裏で決める決断と、あまり変わりはない、というようなことを言った。読んだのは高校のころだから、きちんとした引用ではないが、自分としてはショックというのとも違う、複雑な心境というか、ガンときたものがあった。なんか心に残る言葉だったのだよね、今でも覚えているくらい。

茂木健一郎氏がクオリア日記で言っている。

「人間の脳は、予想できることとできないことが
 入り交じった偶有性に対して適応する
 ようにできあがっている。

 客観的には同じ状況でも、それを認知する主体
 によって偶有性は異なる。

 〈中略〉

 偶有性を抱きしめよ。
 ただし、うまく抱きしめよ。

 偶有性の海の中で、自分を見失ってはいけない。
 もし見失ってしまったら、
 海に漂っている、確実そうなものを
 とにかくつかめ。

 確実なことと、不確実なことの
 バランスをとることを常に心がけよ。」

とな。
確実なものと不確実なもののバランス。
そしてそのバランスをとるための方法というものが、個性そのものなのかもしれない。
目的は一緒。方法は違う。でも敵は一緒。
せめてその敵だけは、見失わないように。
まちがっても同士討ちだけは避けたいものだ。

今は脳味噌停止。
私はギャンブルには向いていないのよ…。


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2009年05月02日

「ゴドーを待ちながら」 サミュエル・ベケット

自律神経失調症になりそうな、睡眠のアンバランスの合間に読んだ。
それは眠れぬ夜、目覚めてしまった早朝、睡眠と睡眠の合間。
こんなにとぎれとぎれに、しかも夢と現実の狭間で読んでいたというのに、筋が飛ばないで、すぐに続きに入っていけるのはなぜかと、とても不思議だった。
ベケットについて、興味はあるけどあまり知らない。スピノザの影響もあるようだ。「ゴドー…」はあまりにも有名で、今更読むのもどうなのかと思ったけど、読んでよかったと思っている。

ゴドーを待っている浮浪者2名は、なんども別れようとして、でも一緒にいる。一緒にいなきゃいけないはっきりした理由はあまりない。でもゴドーを待つためには一緒にいた方がよいと、暗黙のうちに思っている。たいくつしのぎと意志の継続のため。
ゴドーに何かを期待しているわけではない。ただ、約束したから待っている。浮浪者だからではない。それは立派な職業の人だって変わらないことだ。ただ別の方法で、その場をしのいでいるだけだ。

その場をしのぐ方法でしかないならば、やはり楽しいに越したことはない。しかし楽しくないことがなくなったら、楽しいこともなくなるという矛盾…。

そして誰の元にもゴドーは来ない。そしてみんな知っている。ゴドーは来ない。でもみんな待っている。なぜかゴドーを…。


「ゴドーを待ちながら」 サミュエル・ベケット
 安堂信也 高橋康也 訳   
 白水社 2,100円
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